(続)人生の経費

「夕べ家内からマジで別れ話を持ち掛けられました。思い当たる節はありません。センセ、どうしましょう?」

Aは50代の後半、鬼の営業部長といわれてきた仕事人間だ。Aの奥さんは数えきれないほどの転勤引越しの総てを仕切り、その合間をみて二人の子どもの出産、育児、家事一切を黙って切り盛りしてきた女性だ。良妻の鑑のようなワイフの口から突然別れると言われて、Aは心臓が口から飛び出すほど驚いた。

「熟年主婦が亭主に突きつける別れ話の殆どは、他のオトコにちょっとのぼせただけの不倫ごときが原因ではないのです。亭主の唯我独尊の生き方や一人よがりの価値観に愛想が尽き果てたというのが真実です。我慢も今日まで、明日からは一人でのびのび生きたいというのが奥方の本音ですな。Aさん、この線で思い当たる節はありませんか?」「?」

「奥さんとの結婚記念日が何月何日か覚えていますか?」「もう昔のことだから忘れてしまいました」「奥様の誕生日にプレゼントを贈ったことは?」「近頃はありません」「Aさんは得意先の奥方たちの誕生日を全部ご存知だそうですね」「仕事の一部ですからメモなしでもソラで言えます」「誕生日が来るとそれぞれの奥方の好みの品物を自分で選んで届けられると聞きました」「勿論です。経費は営業部で予算化しております」「仕事なら他人の奥方の誕生日をソラで暗記、費用も予算化し、品物はAさんご自身が選ぶとおっしゃる。同じことをご自分の奥様にして差し上げていたら、別れ話が出ることはなかったでしょう」「仕事と家内は別です」「得意先へのサービスのためなら時間も労力も莫大な経費も平気で使うでしょ。同様に各人の人生にも経費が要ると思ってください。今夜にでも素敵なプレゼントを奥様に贈ったらいかが?まだ間に合いますよ」

(出典: デイリースポーツ)

人生の経費

21年ぶりに過ごした日本の夏はききしにまさる酷暑である。ニッポンの棲みかと定めた大阪のマンションは賃貸ながら快適な住み心地だ。キッチン、バスをふくむ全インテリアを新装したばかり。2台のクーラーは備えつけ。ひと目見て即決したが、賃貸の手続きに日米間の大きな違いを発見した。

不動産屋の紹介手数料が家賃1ヶ月分というのは日米同じだ。米国ではそれと別に家主にダウンペイメントと称する預かり金1ヶ月分を渡して手続きは完了だ。この預かり金は、住宅に常識を超えたダメージがなければ、出るときには全額返還してくれる。

ニッポンでは敷金や権利金というワケの判らぬカネを取られる。それも家賃の半年分ぐらいを敷金として預かり、出るときには60パーセントを権利金として徴収するというから、強盗に逢ったような気になる。敷金や権利金のいわれについて不動産屋を質問攻めにしてみたが、プロでも明確な返答ができない代物だ。ラチのあかぬまま今に至っている。

米国では冷蔵庫と洗濯機は賃貸住宅の常備品である。この二つを欠くと借り手はつかない。日本では借り手が買うのが常識だという。何という無駄遣い!絵や電話機を壁に掛けるために釘を打ってもいいかとたずねると、出るときの損料を覚悟ならどうぞという。そんなアホな。米国の家主は釘穴やフック穴には一切損料をとらない。穴をシーラーで埋めるのは素人でも出来る。内装を借り手がすきな色に塗り替えても、家主は一切文句を言わない。

絵も写真も掛かっていない無機質な白い壁、床に置きっぱなしの電話機を見て出るのはため息。ニッポンの賃貸住宅市場はあくまで家主優位で動くビジネスとみた。

「センセ、ホノルルのお宅と大阪が半々なら、大阪の半年分は空家賃ですな。もったいないですな」「これも人生の経費だと納得しています」

(出典: デイリースポーツ)

教える者と教わる者

会津若松のT病院から招きを受けて講演に旅立った。東海道と東北新幹線を乗り継ぎ、郡山から高速道路を1時間走ると白虎隊の会津若松に到達する。磐梯山を含む山並みに囲まれた会津盆地は海抜1,000米だから夏でも涼しい。講演では医師不足対策について持論の医師パーフォーマンス不足論を展開、解決策として診療スタイルの個人プレーからチームプレーへの変更と補助人員の充足を強調した。あとの席でも質問が続出し医師不足の深刻さが伝わってきた。

講演では演者と聴衆は充実感を共有する。ところが医学生や若いドクターを相手の授業や上級医師を対象のセミナーでは、米国ではありえない戸惑いに遭遇する。先日ある病院で若いドクターを対象に数回にわたる臨床学習方法論の授業を企画実施した。臨床学習の本質論に迫るテーマは抽象的でその理解には思考能力が問われる。案の定受講生代表が「授業を別の主題に変更して欲しい」と言いにきた。間をおかず秋に企画していた研修指導医セミナーの出席予定者から開催世話人を通じて「本質論より具体的な指導テクニックを教えろ」というリクエストが届いた。世話人は要求に応えて内容を変更しないと参加者が減って会が成立しないと脅す。セミナーを即座に白紙にもどしたのは言うまでもない。

本質論を省略し方法論から入るのが今ニッポンの知識人の常である。本質論から入るには“考える頭脳”と時間が要る。方法論からだと見て聴いてからだに覚えさせれば頭はいらない。易しくて誰にでも即できればいいという理屈だ。米国では教師と生徒は明確な区別をもつ。生徒に「何をどう教えるべきか」を決断するのがプロの教師だ。その決断に生徒がもっと易しいテーマをと内容の変更を求めることは教育の本質を愚弄する。この愚弄を社会が許すかぎり、ニッポン人の学力低下は止まらないだろう。

(出典: デイリースポーツ)

サービス業って?

大阪で久しぶりに雑踏の中を歩いてみた。人波をかきわけながら歩くのは何年ぶりのことだろう。歩き疲れて喫茶店にはいり席につくと、ベレー帽にピンクのブラウス、タータンチェックのミニスカートに膝までのハイソックスといチャーミングなウエイトレスが、「何になさいますか?」とうやうやしく尋ねてくれる。「紅茶にして」「どの銘柄にいたしましょう?」「アールグレイはある?」いつも飲んでる銘柄を頼むと「承知いたしました」

「あ、ちょっと待って。ケーキも食べたいからケーキセットに振り替えてくれませんか?ケーキはモンブラン、紅茶はいま頼んだアールグレイでお願いします」「お客さま。まことに申し訳ありませんが、ケーキセットになりますと、お出しできる紅茶はダージリンになってしまうのです」「『しまうのです』といったって、ボクはモンブランとアールグレイが欲しいといってるのだから、『しまわないように』してちょうだい」「それでしたら、モンブランとダージリンのセットとは別に、アールグレイもお持ちしましょうか」「紅茶は二つもいらないよ。アールグレイだけでいい」「困りました。どうしましょう」と泣きそうな顔になる。

「ボクがアールグレイを好きだといってるのだから、ダージリンとアールグレイを入れ替えれば済むことじゃないの。それが客にたいするサービスというものです」「申し訳ありません。でも出来ないのです」

ニッポンのサービス業の底が割れた。客の好みより店のマニュアルを重視する、まるで役所の発想だ。アメリカのサービス業では、客は神様だ。客の好みが何物にも優先する。それがサービス業だ。なぜこの簡単なプリンシプルが守れない?飲みたくもないダージリンを無理やりすすりながら「なんでこんな目に逢わされる!」と腹立つばかり。ベレー帽の彼女、このコラム読んだら判ってね。

(出典: デイリースポーツ)

軽薄ニュースショウ

ニッポンに着いて1週間が過ぎた。早速テレビのチャンネルをサーフしてみると、申し合わせたようにニュースをショウ化した番組を放映している。どの局も同じ組み立てのフォーマット。たとえば、朝刊各紙の記事に赤の傍線を引いて大写ししたのを面白可笑しく脚色して読み上げ、番組に日替わりでジャンルの違う複数のゲストをコメンテーターとして招くところなどみんな同じだ。“専門家”のコメンテーターとして招かれた大学教授、法律家、評論家、ジャーナリストらはアンカーが振ってくる主題を解析しコメントする役割なのに、正面から反論することはない。どの主題にも「そうだ。そうだ。その通り」と賛同し次のテーマへと滑っていく。アメリカのテレビを見慣れた目でみると、一人ぐらいはアンカーに正反対の意見を述べてこそゲストコメンテーターの存在感があると思うのだが、どうも事前にグループ全体が同じ方向に向かうよう調整されているフシがある。全員同じ意見で対論のないグループは気色悪いだけだ。

表層を浅く上滑りするだけのコメントは事件の本質に論迫することはく、ただ「怖いことですね」だとか「あってはならないことですね」など、情緒と願望の域から出ることはない。

先週検察長を歴任した元公安調査庁長官が朝鮮総連ビルの売買に関与し詐欺容疑で逮捕された。この事件を米国にたとえると、元CIA長官が敵対するアルカイーダが所有する不動産売買にからんで私利を図ったのと同じぐらいの重みがある。米国だと国を売った元CIA長官は極刑を含む重罪に処されるだろう。だがニッポンのテレビでは、元公安調査庁長官ともあろう人がねえという意味不明のコメントにとどまり、国家存亡の重大事だとは誰も認識しない。本質に迫る発想はどこに消えたのだろう。

(出典: デイリースポーツ)