どこそこ産のナニナニ

「えらいこってっせ。センセがこの間行きはった料亭が検察のガサ入れを受けてまっせ。今すぐテレビつけてみなはれ」「ガサ入れなどという業界用語は使わないでください。そのスジの方と間違われますよ。わたしが行ったのは同じ料亭でも別の店です」

久しぶりに聴くオッチャンの大阪弁の電話を受けてテレビをつけてみる。日本有数の老舗料亭が鹿児島産の牛肉を使った味噌漬を但馬牛と偽って売ったといって大騒ぎ。表がきと違う商品で顧客を騙したのだからまさに羊頭狗肉、立派な詐欺だ。偽装がバレそうになると店主は「わたしが勝手に偽装行為をしました」と書いた書面を用意して従業員に署名を迫ったという。従業員が何のために偽装を?子どもじみたトリックがホントウなら卑劣極まりない責任逃れだ。

「まさかこの老舗料亭がニセモノを売るなんて、もう何も信じられません。淋しいです」
インタビューに答える初老の男性の言葉には哀愁がこもっている。

再生商品を売っていた餡子菓子屋、廃鶏を地鶏と偽っていた鳥肉屋に続いて今度の偽装牛肉の料亭。いずれも創業以来暖簾にかけた信用一筋で顧客をつかんできた老舗である。テレビで見た「すべては従業員の仕業や。ワシは知らん」と言い逃れるオーナーに、正統派カスぼんの姿をみた。

想いを太平洋の彼方に振って見ると、アメリカ人は食べ物に「どこそこ産のナニナニ」という価値観をもたない。食品に賞味期限などという曖昧な規制もない。あるのは何月何日までに売りつくせという販売期限だけ。消費者は食べてみて旨ければそれでよしという価値観だ。買ったモノの食べごろぐらいオトナなら自分で判るやろと突き放す。ここ一連の食べ物偽装は、ニッポン人の「どこそこ産のナニナニ」というブランド好みと賞味期限がある限り、何度でも再発するだろう。

(出典: デイリースポーツ)

「民主」主義

与党党首であり国の将来を担う総理大臣と最大野党の党首の間の会談は不首尾に終わり、国の命運にかかわる重要な問題には何一つ解決の糸口は見つからない。
この1週間テレビや新聞で今回の党首会談にまつわる多種多様の見解や主張を見聞した。だが会談が不首尾に終わったのは、党名に「民主」主義の名を掲げる野党の役員会がその大原則に反したからだとは誰も言わなかった。

民主主義の発祥の地である米国に永年住んでいると、それゆえに生ずる煩雑な手続きに対する我慢や、自らの想いと違う指導者に従う忍耐を強いられるという事態に遭遇する。

いま米国民の大多数はブッシュ大統領のイラク政策に反対である。タイガースファンのごとく熱狂的な共和党の支持者であった友人も、ホワイトハウスの政策を悪しざまに口にだして批判する。
「そんなに嫌なら大統領のリコール運動でも起こしたら?」
と冷やかしてみる。
「リーダーを無能ゆえ辞めさせることは、選んだ自分達が無能の証拠だから出来ない」
「それなら文句いっても無駄じゃないの?」
「行き場のない辛さだ。せめて文句ぐらい言わせろよ」と苦渋の本音を吐く。悲痛な叫びのウラには今度の党首会談で野党に欠けると断じた民主主義の大原則が隠れている。

大統領も党首も選挙のまえは単なる候補者だ。だが一旦選ばれたら全権を託されたリーダーになる。選んだ集団に属するものはリーダーの決断に従い運命を共にするのが民主主義の大原則だ。それが嫌なら別の集団に移ればよい。

野党の役員会は「今、国家は大事な分かれ目にあり党利党略のときではない。党首の決断だからこの際大連合立に賭けようではないか」と提案するオトコを欠いた。だから党首をして「わが党は政権を担うにはいまだ未熟である」と言わしめたのだろう。

(出典: デイリースポーツ)

歩道を走る自転車は大阪の恥

「来る途中の交差点で自転車に乗った人を轢くところでした。とても恐ろしゅうございました」テーブルにつくなりお絞りを手にしたTさんが芦屋からの道中体験したニアミスを語ってくれる。場所は大阪で行きつけのイタリア料理「ドンキショッテ」。Tさんファミリーと出合ったのもいまの淡路町に移転したあとのこの店だった。

「左折のシグナルを出しているのに、それを無視して信号が変わったとたん、わたしの左側を直進するのですから避けようがありませんわ」
「でもご無事でなによりでしたね。大阪に住んであきれたのは自転車が我がもの顔で歩道を通ることです。後ろから音もなく近づいてきて猛スピードで側を通り抜けるのですから、安心して歩くこともできません。少しでも身体に触れたら数億円の損害賠償訴訟を起こしてやろうと考えているところです」
「センセ、それは無駄ですわ。相手はお金のない若者ですもの」
「いえ、金銭が目的ではありません。高額の訴訟で世間の注目を集めて規制法設定への問題提起とするのです」
「でも莫大な訴訟費用がかかりますわよ」

議論が白熱してくるとシェフが丹精込めた料理の味もどこへやら。定番のネロという銘柄の赤ワインの香りも鼻息で吹き飛んでしまう。

「今朝も片手にした携帯メールを見ながら信号無視で突進してきた若い女性の自転車に当たりそうになりました。この子はミニスカートのすそがめくれ上がって花模様の下着が丸見えなのに知らん顔。あられもない姿でサドルにまたがったままメールに熱中しているのです。オンナをこれほど夢中にさせるメールには一体何が書いてあるんやろと興味を持ってしばらく眺めていました」
「センセ、メールよりも花模様に興味がおありだったのではございません?」

オンナも熟女になると惻隠の情を欠くので困る。

(出典: デイリースポーツ)

沖縄で見つけた宝物

今から10年ほど前のことだ。アイオワ大学で親代わりを勤めたニッポンの女子学生が教育学部に学ぶアメリカンの青年と恋に落ちた。卒業と同時に青年は沖縄離島の英語教師に応募し、二人は南の離れ小島で数年を過ごした。その後米国で教育学修士号を取得した青年は嘉手納基地の米国軍人子弟学校の教師に採用され、二人は再び沖縄に戻ってきた。2年前の秋沖縄で3ヶ月を過ごした折、久しぶりに二人と再会する機会に恵まれた。

那覇市内の住まいを訪れると4人の子どもたちと一緒に暖かく迎えてくれた。子ども達は一番上が小学校1年生、間に2人を入れて一番下が1歳になったばかり。半分アメリカンの顔をした子等から「こんにちわ。いらっしゃい」と正統ニッポン語の挨拶を受けると不思議な気持ちがする。この家の公用語はパパと話すときは英語、ママとはニッポン語だそうだ。こども同士の会話には英語とニッポン語が混じりあう。

「いつ着いたの?」「ハワイと沖縄を比べるとどっちが暑い?」「食べ物は何が好き?」「沖縄にはいつまでいるの?」好奇心旺盛な子ども達は訪れた家内とわたしを質問攻めにする。ふと気づいてみるとこの家の子ども同士や両親との間で交わされる会話の量は並外れて多い。両親は子ども等の質問を煩さがりもせず一つ一つ丁寧に答えてやっている。

「子ども達が礼儀正しくて好奇心旺盛な裏にはなにか秘訣があるの?」「たぶん我が家にはテレビがないからでしょ」とパパが答える。「テレビにのめり込むと人と対話しなくなります。それに今のテレビ番組は下品で愚劣で、子ども達が学ぶものは殆どありません」さすが教育学修士のパパ、視点が鋭い。独自の価値観を持つ両親に育てられた子どもたちは、沖縄で見つけた宝物だった。

(出典: デイリースポーツ)

続 レトロな民間サービス業

早朝外にでると肌にあたる風が日ごと冷たさを増し秋の深まりが感じられる。四季のないハワイの住民には貴重な感覚だ。上高地ではすでに紅葉がはじまっているという記事を読んで急に探訪を思い立ち、早速ガイドブックで見つけた宿に予約の電話をかけてみた。

北アルプスを一望にする山間のホテルには和室と洋室があり、食事も会席膳とフランス料理のどちらかを選べるという。食事付の温泉旅館は料理の品数だけを競う愚かしさが嫌で避けてきたのだが、ついにニッポンも選択を尊重する時代になったかと感激し「ボクはフランス料理、家内は和食にしてください」と頼むと「それは出来ません」という。「どうして?」「和食とフランス料理をお出しする食堂は別なので、お二人別々に分かれてのお食事になりますがよろしいですか?」「それは困るよ。どうにかならないの?」「ご一緒に食事をされるのでしたら、和食かフランス料理のいずれか、お二人同じものを選んでいただくことになっております」しばし絶句のあと「部屋の予約はそのまま。食事の選択はまたあとで」で会話は途絶えた。

ニッポンで暮らしていると、この手の会話は日常的で不自然に感じないかもしれないが、アメリカ暮らしの心は大いに乱れるのだ。第一、どんな理由であれカップルを引き離して食事させて平気でいるセンスが耐え難い。第二に一緒に食事したければどちらか一人が好きな料理を犠牲にしろというのも納得できない。これは二つともサービス業の基本理念に反している。「同じものを選んでいただくことになっています」とは民業のくせに何ごとぞ。「なっている」のではなくて「自分たちがそうしている」のでしょうが。まるで他人ごとのような口上は官業の常套句ですぞ。食堂やキッチンのスタッフの都合よりも客の身になって考えてごらん。間違いが判るから。

(出典: デイリースポーツ)