アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(7)

7日目

デナリ国立公園周辺のホテルやロッジに分散宿泊している数千人のクルーズツアー客の中で、明日の午後Whittier(ウイッチャー)を出帆予定のコラルプリンセス号に乗船予定のゲストは、明朝午前8時にホテル前から出発する専用のバスに乗るようにというアナウンスが、部屋に届いていた。

2晩滞在した丸太造りのロッジは、周りが花壇にかこまれ、インペイシェントやガーベラが今を盛りと咲き競っている。外面は丸太造りだが豪華な内装や気配りのきいたアメニティには、ひと昔に流行ったブルーコメッツの「ブルーシャトウ」という曲の、「バラの香に包まれてーーー」という歌詞の一節がぴったりのシャトウの雰囲気だ。

例によって、ラゲージは別便で船まで直送するから廊下に出せとの通達。重たいものは一切ゲストの手には持たせないというサービスがうれしい。貴重品やカメラを納めたショウルダーバッグひとつで専用バスに乗る。今度のツアーでは、毎日の通達はすべて英語で印刷されているので、英語が不得手のヒトには理解できない。かなり難解な表現も使われているので、25年間も英語世界にどっぷり浸かって暮らしてきたわたしでも、はてなと首をひねるものが幾つかあった。

深さ50メートルもある渓谷にかかる橋をわたると、10分ほどでデナリパーク駅につく。気温は5度。バスを降り立つ人の吐く息が白い。旅の2日目にたどり着いた北極海沿岸の石油基地が摂氏2度だったのと比べると暖かいが、それでも7月中旬にしては寒い。石油基地の売店で買った分厚い防寒コートが、ここでも大いに役に立つ。

目の前に停まる8両連結の客車の先頭はディーゼル機関車だ。マリンブルー一色の各車両の横腹には、白でPrincessと大書してある。この列車はプリンセスクルーズ会社の所有する専用列車なのだ。観光会社が所有する列車がJRの線路を走ることは、ニッポンでは有り得ないことだろう。だが、この列車はアラスカ州の公共のレールを走らせてもらうという。

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写真1 横腹に社名が大書してあるプリンセス専用列車。2階が客室。キッチンとダイニングルームは2階建ての1階にある。

各車両は2階建てで、客室は二階。螺旋階段を上がると固定テーブルを真ん中に前後2人づつ4人がけの小セクションが20枠ほどとってあり、車両、コンパートメント、座席の順に記したチケットを手に持って自分の席を探して座る。客車は幅3メートルで重さ90トン。新幹線の1両ほどの大きさに定員80名だから、かなりゆったりしている。足も存分に伸ばせるし、テーブルにはゆったりと余裕がある。車両の中ほどには、ひと枠分のスペースにバーが仕切ってあって、各車両に一人づつ配置されている車掌がバーテンを兼用することになっている。みていると、座席につくとすぐ車掌ならぬバーテンを手招いて、ウオッカトニックを注文している熟年女性がいる。朝の8時すぎ、まだ、発車もしていない列車の中でウオッカトニックを飲むなんて、いささか急ぎ過ぎではないかと思って見ていると、車掌兼バーテンも心得たもの。満面の笑みをうかべ、グラスをマドラーでかき混ぜながら座席に届け、5ドルの飲み物に2ドルのチップを受け取ってにんまり。列車が動いていようが停まっていようが、ゲストに飲みたいものを届けるのは、チップ次第ですよといっているような笑顔に、サービス業の原型を見るようだった。

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写真2 客室の中央にバーがみえる。

席に座って上下左右を見回すと、客車の車窓にあたる部分には窓枠というものが全くない。客室は完全密閉式で車内の温度は冷暖房で調節するようになっている。座席の真横から天井にむかって、1枚の重さが300キロもある湾曲したホンモノのガラス板が張ってある。紫外線防止の仕掛けがしてあるから日焼けの心配はない。室内は完全密閉式で、快適性は空調だけが頼りである。そのため、各車両のキッチンの床下に空調専用の発電機を回すジーゼルエンジンが備えてあるという。コンパートメントのテーブルについて、上下左右のどこを向いても、視野にはいるアラスカの風景と青い空をさえぎるものがないようなデザインになっている。

ニッポンと違って、ヨーロッパやアメリカの駅にはプラットフォームというものがない。乗客は、レールの枕木と同じレベルの地表から、車両の前後についているステップとよぶ数段の階段を上がると、デッキの床面にあがる。ここは雨よけの屋根こそあるがまだ客室外である。走行中にデッキにたつと、チェーンの粗末な手すりの向こうは沿線の原野だ。間違えて転落したらクマかキツネに食べられると覚悟しなければならない。
ところが、沿線の風物の撮影にはこのデッキがベストアングルだ。老いも若きもチェーンの手すりから乗り出し、からだ半分が車外にぶら下がったまま、シャッターチャンスを狙う。自己責任の国だから、誰も引き止めるものはいない。

客室の階下でなにやらゴトゴト音がする。いま上がったばかりの螺旋階段をまた下りてみると、一階は左右に4人がけのテーブルが六つもある本格的な食堂車。ボーイ達が各テーブルにテーブルクロスをかけ、ナプキンや食器を並べている。そのダイニングルームの奥にあたる車両の後ろ半分がキッチンだ。コックがストーブに火をいれながら、仕込みに忙しく働いている。

8両編成の列車に640名の乗客。640名のために8箇所のバーとキッチンとダイニングルームがそれぞれの車両に設置されていて、6、7人のスタッフが働いているのだから、これほど贅沢な汽車の旅はない。感心しているうちに汽笛が鳴って列車は動き出した。ここからネナナ河の渓谷沿いに南に下ってアンカレッジを通過し、347.9マイル(約600キロ)を8時間かけ、北太平洋に面した不凍港のウイッチャーまでの鉄路の旅は始まった。単線ゆえ途中幾つかの駅に停まって対向列車の離合待ちをするが、プリンセスクルーズの専用列車だから、一般客の乗降は一切なし。ゆっくり動き出した列車の空き地では、ホテルから乗ってきたバスのドライバーやガイド、荷物の積み下ろしをする地上スタッフなど数十人が並んで手を振りながら見送ってくれる。列車の旅ならではの旅情いっぱいの別れのシーンはいつ出会っても感動する。

同じコンパートメントの同じテーブルで、向かい合わせに座ったカップルと改めて挨拶をかわす。なにしろ、これから9時間もの列車の旅の間、同じ空間で過ごす相手である。知らんぷりはできない。自己紹介を交わしたカップルは、フロリダ州に住む白人のアメリカン夫婦だと判った。亭主は優良会社のオーナーだったが、50歳すぎに今が盛りの会社を売り払い、ビジネス界から完全に足を洗った。その後は株の運用益で遊び暮らしての10年。ビジネスに復帰する気持ちは全くない。この人生設計はニッポンの昭和のおとこには絶対に理解できないだろう。苦労して作った会社がやっと絶頂を迎えて、これから先どこまで成長するか判らないというとき、大金と引き換えにポンと人手にわたして知らん顔などできるものか。
「会社の一番いい時期に、高値で買ってくれる買い手がついてよかったです」
「よかっただと。寝言も休み休み言え。社員はどうなるのだ?お得意先は?それで社長の社会的責任は果たせるのか?」
ひと昔まえ経済大国を築いた昭和のオトコたちは、きっとこういって50歳で会社を売るオトコを非難しただろう。
会社を売って引退したあとのお収入はと遠まわしに尋ねてみると、NY株式市場での資産運用益だという。この男性、60歳でふさふさの黒髪をしており、通常街でみかけるアラ還のアメリカン男と比べると10歳は若く見える。ストレスのない暮らしをしているからだろう。

ほぼ同じ年恰好のカミさんも、日ごろのシェイプアップが功を奏してか、アメリカン熟年女性には珍しく若々しくみずみずしい。持ち物や着衣のセンスから、かなりセレブな暮らしぶりが伺われる。

二人はこの10年間に世界80カ国を訪れたという。クルージングは、このアラスカ航路を含めて10回ほど。今回念願の北極海の冷たい海水に足を踏み入れる体験をしたので、次は南極大陸に上陸し、南氷洋のなぎさに足を浸けてみたいという。

「つぎつぎと旅のプランがあって楽しみですね」
水をむけてみると、
「幼い頃読んだ冒険小説で胸躍らせた場面には全部足を運んで体験してみるのがボクの夢です。絶海の孤島にもいってみたいし、原子力潜水艦のノーチラス号にも是非乗ってみたいですね」
まるで、質問するKの胸のうちを読み取ってのことか、まるでコピーしたかのような反応だ。
「奥様も冒険小説に魅せられたのですか?」
みえみえの愚問を発してみる。
「いえ、わたしはダーリンの行くところなら、アフリカのサバンナでも厳寒のシベリアでも、どこまでもついていくだけですわ」とアメリカンレディらしくないコメントだった。愚問には愚答でバランスをとってくれたのだろう。

亭主はかなりのカメラオタクで、数台のニッポン製デジタルカメラを操り、時速500枚ぐらいのスピードで目に入るものを手当たり次第に写しまくる。ニッポン人夫婦に出会うのはよほど珍しかったのか、早速2、30枚のスナップ写真を撮られてしまった。
 
「フロリダといえば、アフリカの原野で死滅していく野生動物の救済に異常な関心をもつ大富豪がいると聞いたことがありますが、その方はいまも活動中ですか?」
話題を変えてハナシをフロリダに振ってみる。
「ああ、あの自宅の庭にジャンボジェット機が発着できる4千メートルの空港を自費で造って、アフリカの死滅しつつある稀少動物を、これまた自宅の敷地内に作った動物園に保護しているあの有名な御仁ですね。まだ活動を続けてらっしゃるようですよ」
「ご本人の信念とはいえ、随分高くつく人生目標をお持ちの御仁もいるものですね」
マイホームを持つのが、多くの普通の人の人生目標である。マイ空港を造って、マイジャンボ機を保有し、マイ動物園にアフリカまでジャンボを飛ばして連れ帰った、アフリカの野性動物を保護するのが趣味という御仁は、世界でもそうザラにはいないだろう。

「似たようなハナシですが、今、アメリカの金持ちの間で流行っているのは、オーダーメイドのマイ客車にのって出かける鉄道の旅です」
「ほう?」
「丁度今乗っているような客車を好みのデザインに造らせて、それを路線列車に繋いでもらって旅するのです。車両には、居間、ベッドルーム、湯船にシャワーのバスルーム、キッチンにバーなどに粋を凝らせた家具調度品を配置し、それにメイドやコックやバトラーなどを乗せて、東西南北気の向くまま路線列車に繋いで引っ張ってもらう旅ですから、並の人にはチト真似ができませんな」
アメリカの金持ちはスケールが違う。
世界的大富豪の子女を幾人も手術してきたが、マイ客車で旅をするひとには出会ったことはない。

プリンセスクルーズ専用列車は、アラスカ鉄道が単線ゆえ、対向列車をまって離合のために停車する以外は、ノンストップで800キロを走り抜ける。駅で停まっても、誰も乗り降りしないというわけだ。だから、州都のアンカレージ駅も徐行しながら通過。

アンカレージを抜けると、クック湾を東にのびるターンアゲイン入江北岸沿いに走る。50キロ余りの北側の海岸線から対岸をみると、雪を被ったケナイ山脈の眺めに息を呑む。嶺の北壁の沢には厚い氷河が残っている。こんな景色が1時間近くも続く。

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写真3 車窓から入江の向こうの山に氷河がみえる。

ターンアゲイン入江の中ほどにあるインディアンという集落を通過するとき、不思議な光景を見かけた。1994年にこの地方を襲った大地震で地面が3.6メートルも陥没し、海岸にあった樹木は立ったまま根本半分は海水に没した。立ち枯れした大木の殆どは倒れて海底に眠っているが、残った枯れ木は、まるで海の中から生えてきたように見える。

入江の突き当たりにあるポーテージという小村を過ぎ、トンネルを二つ抜けると、太平洋に面した不凍港であるウイッチャーに着く。トンネルの中の線路は舗装道路に埋まっていて、丁度路面電車のレールの様相を呈している。このトンネルは列車とクルマが連なって、交互に通行する仕組みだ。トンネルを抜けると目の前がウイッチャー港。今夜の出航を待っているコラルプリンセス号(9万3千トン)の真っ白な巨体が見えてきた。

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写真4 コーラルプリンセス号の全長300メートルの巨体はカメラの視野に入りきらない。

 

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(12)
ドクターストップ

2011年のいまアメリカの大学病院など総合病院に設置されている第1級救急医療センターは、救急医療の専門医、研修医、ナース、検査技師が常時30名ほど詰めていて、同時に複数の救急患者が運び込まれても即応できる体制を整えている。緊急手術室のほかに、専用の臨床検査室、超音波診断、MRやCT撮影など画像診断装置を備え、24時間体制で維持することが、第1級センターの認定基準だ。妊産婦や新生児の救急患者は、院内のそれぞれのセンターが別個に受け付けるシステムだ。
アイオワ大学病院に勤務した14年間、妊産婦や新生児をふくめて救急患者の受け入れが出来なくて断るという事態は一度もなかった。ERには専門の研修をうけた医師団や他のスタッフが30人も詰めていて即座に治療にかかるのだ。こうした治療をうける急病人の数は1年間に5万人にのぼる。
アイオワ大学病院は、州民を代表する州知事との約束で、州民である限り医療費の支払い能力にかかわらず、訪れた患者あるいは運びこまれた急病人はすべて無条件に最善の治療をすることになっている。
ニッポンで救急車を呼ぶと、受け入れてくれるセンターを探す間、病人は救急車内でひたすら待たねばならぬという。そうしている間にも時は無為に過ぎていく。それが原因で、患者に不幸な結果を招くことが、深刻な社会問題になっている。しばらく日本に住んでみると、交通事故にあったり、心臓や脳の血管が詰まったりしたばあい、直ちに専門医の治療を受けられる保証はないのに気付く。言いたくはないが、医療先進国アメリカに暮らすありがたみがはじめて実感されるのだ。

救急外来:ケンカの敗者はラッパ吹き

40年前のヨコスカ米国海軍病院の救急外来には、当番のスタッフ医師1名、インターン2名、衛生兵2名が詰めているだけの小所帯で、すべての救急患者の治療にあたっていた。救急患者のほとんどは、兵隊同士のケンカで傷ついた怪我人だった。洋上に展開する艦隊から緊急患者がヘリで運ばれてくることはまれだった。平和な時期がつづくと、軍隊の病院はヒマなのだ。
USネービーの水兵と海兵隊員の間には、犬猿の仲ともいうべき伝統の確執がある。あるとき海兵隊の軍曹が部下の隊員に訓示を垂れるのを聞いて仰天した。
「貴様らUSマリンは世界最強の兵隊だ。その海兵隊員が軟弱水兵どもとケンカして負けることは、オレは絶対に許さんぞ!」
まるで自国海軍と交戦中のような激しい檄を飛ばす。これでは水兵とケンカしろとけしかけているようなものではないか。喝をいれられた海兵隊員は、ヨコスカの夜の街で水兵とすれ違うと、肩がふれたの、ガンをつけたのと些細なことに因縁をつけ、好んで争いに持ち込むのだった。
ケンカになると水兵に勝ち目はない。なにしろ相手は世界最強の兵士として格闘技の訓練をうけたプロなのだ。
海兵隊員は目前の敵には先手必勝、速攻で相手を破壊することが勝利につながると教えられている。一方の水兵たちが受ける戦闘訓練は、専ら艦上のモニターのスクリーン上に現れる目標に向かってミサイルの発射ボタンを押すことだ。落下地点でミサイルが起こした破壊成果を体感することはない。二者の間では、闘うまえから勝者は決っている。
海兵隊員は、水兵のなかでも軍楽隊のメンバーをなぜか好んで破壊の標的とする。生贄となった軍楽隊員メンバーを何人か治療した。軍楽隊かどうかの見分けは水兵の着ているセーラー服の肩についたラッパのマークだ。あるとき加害者の海兵隊員に、楽団員をなぜ嫌うのかと尋ねてみた。返ってきた答は、
「俺たちが戦場で血みどろになって戦っているとき、のんびりラッパなんぞ吹いているヤツは許せねぇ」だと。
世界最強の米海兵隊員でも、多勢に無勢の状況下だと、軟弱水兵にノックアウトを喰らうこともある。闘いに敗れた海兵隊員の治療を終えてバラック(兵舎)に連絡すると、当直下士官が部下を連れジープを飛ばして迎えにくる。
部下が負傷した場合、その原因がなんであれ、上司たるもの真っ先に部下の様態を気遣うのが常識だろう。ところが、この常識は海兵隊の下士官には通用しない。ストレッチャーの上で、まだ意識もうろうとしている部下の隊員にむかって、
「お前は、水兵ごときにノックアウトされた情けないヤツだ。海兵隊の恥さらしだ!」
と叱りつけているオニ軍曹の姿を何度も目にした。
怒り狂ったオニ軍曹は半病人の部下を、まるで荷物でも運ぶかのように、ジープの後部座席に放り込んで走り去るのだった。こんな扱いを見るたび、軍隊に徴兵される機会をうまく避けて生きて来られた時代に感謝し、我が人生の幸運に胸をなでおろすのだった。
戦後の60余年間、一度も戦争に巻き込まれずに平和を謳歌してきた日本という国は人も社会も堕落した。堕落したっていいじゃないか。みんなが平和で豊かに暮らせる社会を目指して昭和の人間は頑張り通してきたのだ。行き着いたゴールが堕落したニッポンというわけだ。意気地なしだろうと女々しかろうと殺し合いをするよりましだと思うのは、いまや昭和人間のなかでも少数派となった、戦争を体験した世代を生きたからだろう。戦争の思い出はひもじさと寒さだけである。

ドクターストップ

そんな血なまぐさい救急外来に勤務していた或る日、スタッフ医師から
「今夜は海軍と海兵隊のボクシング対抗試合があるから、立会い医師としてジムへ出向するように」という命令を受けた。迎えにきたハンビーとよぶ灰色の兵員輸送車に乗って、基地内のジムにむかう。運転する下士官は鼻のつぶれた元ボクサー。
「ドック(ドクター)、くれぐれも注意しておきますが、あっしが合図するまで、タオルをリングに投げ入れたりしてはいけませんぜ。ちょっと鼻血が出るのを見ると、新米のドックはびびってすぐドクターストップをかけてしまうので困るのです」
ボクシングの立会いドクターを勤めるのは、これが生まれて初めての経験だった。
白衣のユニフォーム姿でリングサイドに詰める。やがてゴングが鳴って試合がはじまる。観客席を埋める海軍と海兵隊両陣営から喚声があがる。なかには女性の姿もちらほら。両軍の期待を双肩に背負う選手は、互いに相手をグッとにらみつけ、闘争本能をむき出しにする。リングシューズがキャンバスをこするたび、キュッキュッという音をたてる。
第1ラウンドはほぼ互角。第2ラウンド目に入ると、リングサイドのドクター席に選手の流す汗がしぶきとなって降りかかってくる。パンチを出すたび、選手が発するウッだのオッだのの掛け声が頻繁になる。パンチがチン(顎)に入ると、相手は一瞬ぐらつく。観客席からは指笛のホイッスルがいりまじった大歓声。興奮はピークに達する。
「倒せ、倒せ(knock him out!)」にまじって、
「殺せ、殺せ(kill him!)」という声も聞こえる。敗色の濃い水兵はまぶたが腫れあがって両目は完全に塞がっているようにみえる。パンチを受けるたびに、口から血の混じった唾液と一緒にマウスピースが飛び出しかける。それをグローブで押し込みながら闘い続けようとする。テレビで観るのと比べると、実物は格段に迫力が違う。正直、どっちが勝ってもいいから、すぐ止めて欲しいと思った。
なんという野蛮なゲームだ。リングの上では、人間が人間を合法的に破壊し負傷させることが許される。観客席の人間共は、その様を眺めて喜悦にふける。「もっとやれ、倒せ、殺せ」と叫びつづけるのはまさに狂気の沙汰だ。
リング上で、無力のまま破壊されていく人間を目の当たりにすると、本能的にドクターストップをかけたくなる。ボクシングという非人間的ゲームに、つのる憎悪が止まらなかった。
同じ日のつい数時間前、脳外科の授業で「頭部に反復して衝撃をうけると、脳内の微細血管が切れて出血し、これが脳組織に不可逆的な損傷をあたえる。パンチドランカーはその典型だ」と教えられたばかりだ。目の前の試合をみていると、これで脳の血管が切れないほうがおかしい。タオルを投げたくてうずうずしていると、隣に座る元ボクサーの下士官から、
「ドック、まだまだ。タオルを投げては駄目だよ」
と念を押される。試合は第3ラウンドに水兵がノックアウトされ、残酷なショウはやっと幕を下ろした。このとき、もうボクシングのドクターは2度としないと固く誓った。いまでも地上からボクシングが消滅することを願っている。

日米対抗フットボール試合

ボクシングの試合から数週間過ぎた土曜日、救急医療センターのスタッフから、基地内のスタジアムに明治大学チームを招いたアメリカンフットボールの日米対抗試合があるから立会いドックとして出向くよう命令を受けた。フットボールスタジアムに着いてみると、観客席の全員がアメリカンだ。これはフェアでない。明治の応援団も、選手の家族やガールフレンドたちも、基地のゲートを護る海兵隊員のガードにシャットアウトを喰らわされて、中に入ることが出来なかったのだ。米国政府が日米友好関係をことのほか尊重する今であれば、「みなさん、基地にようこそ。ウェルカムだよ」と大歓迎だろう。だが1960年代の米軍基地は周囲にフェンスを張り巡らし、入り口おどろおどろしいオフリミットの札を立て、一般の日本人を招き入れることはなかった。
こんな状況下で、明大チームを応援するニッポン人といえば微力ながらわたし一人しかない。「力続く限り明治を応援してやるぜ」と、固い決意を心に秘め、医療班が詰める所定の席につく。
主任ジャッジのホイッスルが鳴り響き、明治チームのキックオフで試合は始まった。迎え打つUSネービーチームと比べると、明治の選手たちは身長で8インチ(20センチ)、体重では30ポンド(14キロ)ぐらい劣って見える。まるで大人と子どもが闘っているようなものだ。
「メイジ、頑張れ。鬼畜米海軍なんぞに負けるな。大和魂でいけ!」
とニッポン語で檄を飛ばすが、観客席の大歓声のせいでフィールドにいる選手には届かない。明治の攻撃になっても、総崩れのディフェンスでは小柄なクオーターバックを護りきれず、パスを投げるまえにあえなくつぶされてしまう。大男どもにのしかかられ押しつぶされて、起き上がられなくなった明治のクオーターバックに駆け寄りしっかりせよと抱きおこす。脳震盪をおこして朦朧としながら耳にするニッポン語の励ましで目が覚めた若者、リトルアメリカに居る筈もないニッポン人の顔を見て、天国に着いたものと勘違いしたかもしれる。それからの働きには目覚しいものが見られた。
声も涸れよとばかり檄をとばしてみたが、応援団の多勢に無勢、両軍の体力の違いは如何んとも仕難く、わが明治は天文学的数字の大差で負けた。 今のニッポンの若者は、上背が6フィート(180センチ)を越えるものも少なくない。いまなら互角で闘えるのではなかろうか。かなうことなら、いまの明治チームをタイムトンネルに乗せて1963年に連れ戻し、当時のUSネービーのチームと闘わせてみたいものだ。互角の勝負になるのではないか。

(2008年12月1日付 イーストウエストジャーナル紙)

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(11)
吼える外科医

若い外科医は、師事するマエストロ(師匠)の色に簡単に染まる。
医学部を卒業したての若い外科医は、乾いたスポンジにたとえられる。スポンジが水を含むと膨らむように、知識や技術の吸収欲が大きいほど、技術や経験の蓄積は増加する。先達から受け継いだ知と技は、余すところなく後進に伝えていくのが、外科医の世界の伝統だ。こうして知見の伝承を重ねていくうち、医学は気付かぬ間にも前進する。
若かりし日、外科医として最も強い感化をうけたのは、島の病院で教えをうけたドクターSだった。
難しい手術の途中で、背筋が冷たくなるような危機に直面しても、あわてず騒がず、するべきことをきちんとすればいいのだよ、とその背中は教えてくれた。
その後ボストンで1年間教えを受けたF教授からは、怒らず、偉ぶらず、危急にあわてず、寛大で忍耐強くあれと教わったが、師の蔭に到達せぬうちに外科医を引退してしまった。

ハウンドドッグ

一方、こんな外科医には絶対になりたくないと思う、反面教師もいる。
そんな外科医がヨコスカ海軍病院にもいた。
仮にLと呼ぶ彼は、その言の端々から推測すると、若かりし日にスパルタ式修練こそ善なりとする先輩から、厳しくしごかれたのだろう。そときのトラウマが心の片隅に残っているので、手術が思い通りに進まなくなると、まわりにいるスタッフに当り散らすようになったのだろう。たとえば、前立ち助手(患者をはさんだ手術台の対側に立って外科医の第一助手を務めるアシスタント)をしているインターンが、慣れない糸結びにもたつくと、
「何をもたもたしているのだ。お前がもたつくせいで、オレのこの素晴らしい手術もそこらのクズ医者のやる手術と同じになってしまうじゃないか」
となじり倒す。
罵詈雑言だけならともかく、前立ちするインターンの弁慶の泣き所を手術台の下で蹴りつける。前立ち助手を務めるインターンは、患者の命にかかわるほど重大なミスをしたわけではない。未熟さゆえに、ちょっともたついただけなのだ。それだけのことに、オレの手術にケチをつけたと因縁をつけるところなど、街で肩切るチンピラと変らない。インターンが手術時間を数秒浪費したからといって、手術台の下で足を蹴っ飛ばされる筋合いなんかない。あまりの理不尽にインターンたちは鳩首会議を開いて対応策を練ったのだが、どの案も妙案とはいえない。いざとなると、これという良案は浮かんでこないものだ。

そんな或る日、いつものようにLの罵詈雑言を浴びながら、手術助手をしていた女性インターンEは、Lが口を滑らせた一言にぶちきれた。
「お前のように下手糞な助手は見たことがない。もう、助手をしなくていいから、手術場から出て失せろ!」
「そうですか。それではご命令に従ってそうさせていただきます」
さっさと手術台から離れて、ガウンを脱ぎ捨て、両手からゴム手袋を外し、あとを振りむきもせず手術室から出て行ってしまった。
この女性インターンEは、根性のない男どもに出来ない快挙をなしとげた「ガッツのヒロイン」と、大喝采を浴びた。
蹴とばされても、アホのバカのと呼ばれても、「出て行け!」と怒鳴られても、インターンは「すみません」と謝るに違いないと思い込んでいたLは、「ガッツのヒロイン」からうけた強力なカウンターパンチに泡を喰った。助手がいなければ、自称“手術の名人”でも手術の続行は難しい。自分で「出て行け」といったからには、追いかけて引き戻すわけにいかぬ。パニックに陥ったLは、麻酔医とナースに当り散らしながら、四苦八苦のうちに手術を終えたそうだ。

ささやかな報復

開胸手術は、患者の胸を開いて病変に犯された肺の一部を切除する大手術である。この大手術でLの助手をする運命が巡ってきた。
大口をたたきまくるLは、みんなから嫌われているが、手術の技術は抜群だ。手術は順調に進行し、肺の一部を無事切除したのち、開いた胸を閉じる作業に入った。胸を開いた傷を閉じるには、切開部上下の肋骨に太い縫合糸をかけて両者を寄せ合わせる。外科医のなかには縫合糸のブランドに強いこだわりを持つ人もいる。縫合の局面に応じて、使う縫合糸の番手を頑なに守りぬく外科医もいる。いずれも師と仰ぐ外科医のクセを受け継いだ頑固者たちだ。思いどおりの縫合糸が揃わないと手術をしないという偏屈もいる。Lもそんな外科医の一人だった。

ブランドレスの無名縫合糸でも、縫合糸には替わりはない。意中の番手がなくても、一番手上下の糸で代替すればよい。そんな余裕を持つことが、外科医の腕の見せ所というものだ。ところが石頭の頑固者たちは、自分が大外科医になったつもりでいるから、手術中はどんなわがままでも通してもらえると単純に信じている。まるで幼稚園児のような発想だが、そんな外科医がメスを持つと困ることが起きる。

わき道にそれるが、わたしは外科医現役の間に10数カ国の大学病院から招かれて各種の供覧手術に出向いた。初めて出合った異国のスタッフたちとぶっつけ本番で行う手術には、ブランドの糸もなければ、番手の選り好みも許されない。一緒に手術するスタッフと言葉が通じない場面も多く経験した。いつも使っている手馴れた器具や豊富な材料、助手を務めるスタッフを連れていけば、最善の手術を見てもらえるのではないかという意見もある。だが、供覧手術を望む現地の人たちの教育にならない。現地にあるものを使って手術をやり遂げる技術を教えることにこそ供覧手術の意義があるのだ。

はなしをLの肺切除手術に戻そう。
病変に犯された肺を無事に切除し、いざ開いた胸の傷を閉じるという段になってLは、
「オレが手術まえに頼んでおいたブランドと番手の縫合糸を出せ」
とゴネはじめた。
手術室の婦長を呼びつけ、
「この病院にストックがなければ、立川の米国空軍病院に電話で尋ねてみろ。もし空軍のヤツらが在庫を持っているなら、チョッパーを飛ばしてピックアップしてこい」
と無理難題をおしつける。チョッパーというのは業界用語でヘリコプターのこと。いくらUSネービーといえども、たかが縫合糸一袋のために立川基地の空軍病院に向かって、ヘリコプターを発進させるワケにはいかぬ。ここに至ってついに思案の糸が途切れた婦長は、病院長のお出ましを発令したのだった。
院長が手術場に入ってくると、それまで狂犬のごとく吼えまくっていたLも、さすがにおとなしくなった。院長にむかって悪態をつくと軍法会議にかけられる可能性がある。院長はLに、
「望みの縫合糸がなければ、替わりのもので間に合わせなさい。これは院長命令だ」
と穏やかなひと言を残して手術室をあとにした。
胸のすくようなガバナンス(統治力)だった。今ニッポンの病院が抱えている多くの問題は、院長にこのガバナンスを持たせることによって殆ど解決する。

さて、いよいよ胸の傷を閉じ終えてスポンジカウント(ガーゼ勘定)をしてみると1枚足りない。アメリカの病院では手術の開始前と終了後にガーゼや手術器具の数を勘定することが法で義務付けられている。術前と術後に員数が合えば問題ないが、そうでなければレントゲン写真をとって調べる。そのため手術に使うガーゼには、はじめからX線に写るマーカーが付けられている。これで発見されない場合には、縫った傷をもう一度開いて、胸の中を徹底的に調べるのだ。何度数えなおしてみても、ガーゼは一枚足りないのだ。Lの顔色は真っ青。
もう一度胸を開くとなると麻酔医やナースたちに「すまないが頼む」と頭を下げねばならぬ。インターンにも頭はさげるべきだが、多分、Lはしないだろうと思っていたら、やはりその通りだった。
ナースが電話でレントゲン技師を呼びかけた頃、一緒に手術助手についていたもう一人のインターンのKが「ここにありました!」と手にしたガーゼを高く掲げた。
あれほど探して見つからなかったガーゼのヤツめ、一体何処に隠れていたのだ。その場は何事もなく収まったが、あとでKが告白した真相を知って仰天した。
「Lの奴を少し懲らしめてやろうとおもってさ、オレの手のなかに隠してたんだ」
後年、Kは東京の大学で外科教授になったが、心筋梗塞で50代半ばの若さで亡くなった。ガッツのある惜しい男を失った。

ユニークな仕返し

Lを懲らしめるためなら頭脳はいくらでも提供するぜというインターンの一人が発案実行した仕返しは、なかなかユニークだった。
毎週火曜日の午後、Lは外来で患者を診察する。患者の殆どは海軍や海兵隊の将兵だが、ときにはその家族や軍属とよぶ一般市民も診る。一回の診察は15分間で予約制だ。1時間に4人診るだけだから、頭のてっぺんからつま先まで完璧な診察をする。その診察には直腸診も含まれている。直腸診は、ゴム手袋をはめた医師の指を肛門に挿入し、痔核、ポリープ、直腸ガンなどの有無をしらべる診察手技の一つだ。当時は手術室で使いふるしたゴム手袋を洗って消毒し、それを外来で直腸診に再使用していた。もちろん直腸診に使ったあとはゴミ箱に捨てることになっていた。どこまでも尊大なLは、ナースに命じて自分専用のゴム手袋を用意させ、インターンたちには絶対に使わせないよう命令していた。

ある日、天才的頭脳を持つインターンNのは思いついた妙案は、左手を使って患者の直腸診をしたゴム手袋をゴミ箱に捨てないでそのまま裏表をひっくり返し、右手用にみせかけてL専用のゴム手袋の一番上にさりげなく置いて知らぬ顔を決め込むという策略だった。
その日の午後外来を訪れた最初の予約患者を診察していたLは、この患者に直腸診をする運びとなった。Lがゴム手袋を手にとる。Nはじめ数人のインターンが固唾を呑んでみまもる中、ゴム手袋はLの右手にはめられていく。
人差し指が先まではまって異変に気づいたLの表情がゆがむ。大急ぎで手袋を外し、指を鼻先に持っていくと、あってならぬ異臭がLの鼻をついた。天才Nが仕組んだこととは露知らぬLは、大声でナースを呼びつけ、
「ゴム手袋はオレ様専用のものを用意しろといっておいた筈だ!見ろ。これは破れているではないか!」
と怒鳴りつけたがあとの祭り。
UNCHIのついた人差し指を石鹸で洗いまくるLの背中には、一匹狼の孤独な淋しさが宿っていた。

(2008年11月1日付 イーストウエストジャーナル紙)

アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(6)

第4日目

石油基地プルドウベイから北極圏のツンドラの原野を走りぬけ、銀色に輝くパイプライン沿ってエゾ松の原生林を南に800キロ下ってたどり着いたのは、フェアバンクス郊外にプリンセスクルーズ会社が自社ツアー客のために立てた豪華なリゾートホテルだった。

二晩ぶりの文明のありがたみを満喫しながら、まずシャワーを浴びてアラスカ原野の埃を落とす。湯上りのさっぱりしたからだに、コットンの上下、薄手のセーターを着てダイニングルームに降りていく。

冬はマイナス60度

時計は午後8時をさすが、窓の外はまだ夕焼け雲。北極圏から大分離れたここフェアバンクスでもまだ白夜は続く。予約しておいたテーブルにつくと、リネンのテーブルクロスの上に野の花の一輪挿し。ナプキンで包んだナイフとフォークが乗っている。飯場のような宿で過ごした二晩も済んでみれば懐かしい。
「この時期、オーロラは出ないの?」
注文を聞きにきた中年金髪のウエイトレスに尋ねてみる。
「残念ですが、夏の間はめったに見られないのですよ。オーロラは冬の特別寒い日を好んで出るようです」
擬人法の表現が気に入って、しばらくウエイトレスと会話した。

「フェアバンクス生まれですか?」
「生まれも育ちもフェアバンクスです。ずーっとここで暮らしてきました」
「冬になると寒いんだろうね。一番寒いときで何度ぐらいまで下がったの?」
「わたしがまだハイスクールの学生だったから、40年ぐらい前だったかしら。冬の間は目が覚めるとすぐ、父がバックヤードの軒下に吊るしてくれた、温度計を見るのが習慣なのですが、それがマイナス60度を指した朝がありました。ええ勿論華氏の60度です。学校へ行こうと家を出て歩きはじめたのですが、体中に突き刺さるような寒さに途中で動けなくなり、全然知らない家の玄関のドアを叩いて中に入れてもらいました。家の中に入れてもらって、しばらく暖炉で暖まると元気になったので、家まで送ってもらって帰りついたら、ラジオやテレビで学校は小中高すべて休校というアナウンスをしているところでした。これがわたしの体験した一番寒い冬の日です」
「無事生存できてよかったね」
「ありがとうございます。あのときはホントウに死ぬかとおもいました」

華氏のマイナス60度を摂氏になおすと、マイナス45度ぐらいになる。アイオワ大学に勤務していたころ、気温が華氏マイナス30度になった冬を経験した。華氏マイナス30度は、計算してみると、丁度摂氏マイナス30度と一致する。ニッポンでは、確か北海道の旭川でマイナス30度になったと、少年時代に聞いた記憶がある。アイオワでマイナス30度になったときには、市役所の広報車が出動し、道を歩いている市民に外出禁止を命じて巡回した。マイナス30度だと、凍った道を歩いて転倒骨折し路上で動けなくなると、頑健な若者でも15分ぐらいで凍死するという。
中西部では毎冬約800人の人が路上で命を落とす。その多くは野原の真ん中の道路で運転中の車が故障し、携帯で助けを呼ぶが、救援隊が駆けつける間に凍死してしまうのだ。それよりさらに15度も低い温度とはどんな冷たさだろう。想像もつかない。

今夜のディナーはアラスカ名物の海鮮料理。ハリブット(オヒョウ)、サーモン、アラスカンキングクラブの中から好きなものを選び、焼く、揚げる、炒める、蒸す、ボイルするのうち、どれがいいかと尋ねてくれる。好みの料理の仕方を選んで頼み、アペタイザーの揚げたカラマリ(小型のイカ)やシュリンプカクテルなどを肴にワイングラスを傾けていると、アントレは大きなメイン皿に載ってでてくる。アペタイザーは食欲に更なる輪をかけ、ワインはその潤滑油の役目をする。もうこれ以上待てないという気持ちが頂上に達した頃を見計らって、タイミングよくアントレをだすのがレストランビジネスの成功のコツである。

マイナス60度から奇跡の生還をしたアイラブルーシーのルーシーのようなウエイトレスは、満面の笑顔でアントレを運んできてくれた。先にカミさんがボイルしたポーチドハリブットを頼んだので、アラスカンキングクラブをオーダーした。少々行儀は悪いが半分食べたところで皿を交換すると、一度のディナーで2種類の料理をエンジョイできる。これが家の慣わしになって永年になる。

分厚い白身のハリブットをレモン醤油で食べながら、開高健氏のアラスカ紀行を思い出す。たたみ1畳もの大きさのハリブットを釣り上げたときの快感がリアルに描かれた名エッセイだった。いまそのアラスカに居てハリブットの分厚い切り身にかぶりついているのだ。アラスカンキングクラブには、同じカニに違いはないのだが、わざわざベーリング海キングクラブと産地が明記してあるのが気持ちよかった。太い真っ赤な脚にイボイボがついているのが特徴のこのカニは、ホノルルのレストランでも食べられるが、なんといっても、冷凍にするまえの活きのいいヤツは味が違う。大きな皿に長さ25センチぐらいに切った脚が7、8本載ってくる。見た目堅そうに見える殻が、実はゴムホースのような感触なのが意外だった。出てきた脚を全部食べるとカニだけで満腹してしまいそうだが、カミさんに半分残してハリブットとトレードする。クリスピーなフランスパンのバケットとよく会う。カニと白ワインとフランスパンを代わる代わる口に運ぶと、デザートの入る余地はない。ニッポンのレストランはパン一切れに幾ら、コーヒーは一杯毎に幾らと細かく別チャージをとる。アメリカではどの州のどんな田舎町にいっても、食事についているパンとコーヒーは幾らお代わりしても料金はとらない。豊かさの本質の違いに、残念ながら多くのニッポン人は気付いていない。

当地にきてはじめて実感したのだが、ロシアとアラスカは太平洋と北極海を連絡するベーリング海峡をへだてて、わずか100マイルほどしか離れていないのだ。道理でアラスカ各地に出稼ぎにきているロシア人男女をそこここで見かけた。その昔、アラスカはロシアの領土だったが、当時のアラスカはまさに未開の地の果てだった。なんの価値もない人跡未踏の土地と見做されていた。だから、ロシアも気前よくタダ同然の取引でアラスカをアメリカに渡してくれたのだろう。のちにユーコン川沿いに金鉱発見され、20世紀初めには北極海沿岸に油田が見つかった。ゴールドラッシュ、石油ラッシュのつぎは天然ガスラッシュだと、アラスカンは口を揃えていう。天然ガスのパイプライン建設を請け負うのは、いまの勢いからすると韓国か中国だろう。そとから眺めると、日本のエネルギーとダイナミズムは昭和の終わりで尽き果ててしまったように感じられる。

酒に厳しいアラスカ州法

ディナーに付きもののワインは、いつもならグラスで注文するのだが、アラスカ縦断を祝ってカリフォルニア産Ferrano Canaroのシャドネーのボトルを1本もらった。食事が終わった時点で、ボトルにはまだ3分の2ぐらい残っている。なにしろアルコールは一滴たりとも口にしないカミさん相手では、グラスを飲み干しても気持ちが高揚しない。

ルーシーに似た金髪おばさんのウエイトレスを呼んで、ボトルを部屋に持って上がれるようにバケットやリネンの用意を頼む。
「あら、ごめんなさいね。それはできないことになっているのですよ」
「きちんとお金を払って買ったワインなのだから、このテーブルで飲もうとボクの部屋で飲もうと、それはボクの勝手でしょ。ホテルの内規が許さないというなら、そっちのほうが間違っているのじゃないの?」
「いえ、ホテルの内規ではないのです。アラスカ州法でそうきめられているのです。ホテルでもレストランでも、酒ビンを開けてもよい場所は同じ建物のなかでも限られた一部空間に許可を申請し、州が認めたスポットに限るとアラスカ州法で決められているのです。お客さんが、栓を抜いた酒ビンを手にしてそれ以外の場所を歩くと、歩かせたホテルは厳罰をうけ、場合によっては酒類の販売ライセンスが取り消される可能性があるのです。このレストランの中なら、勿論、開けたボトルをもっての行き来は自由ですし、お客さまのお部屋の中もオーケィです。ところが、その間にあるローカ、ロビー、エレベーターの中などは、栓を抜いたボトルを持って移動してはいけないと法律が禁じているのです」
「そのウラには、どんな理由があるの?」
「ゴールドラッシュ時代にさかのぼりますが、川から砂金を手にして戻ってきた男たちは気が荒く、サロンで飲んで酔うと暴れて手がつけられなかったそうです。酒場の中だけならともかく、ホテルでもレストランでもローカやロビーに酒ビン片手の男がたむろしていたら、普通のお客は恐ろしくて寄り付けませんわ。そこで州議会は飲酒場所を限定するため、栓なしボトルの所持禁止法案を成立させ、それが百年を超えたいまも効力を発揮しているというわけなのです」
「ふーん。そんなハナシ、初めて聞いたね。ではこうしたらどう?ボクたちはこのボトルに一切手を触れないで手ぶらでエレベーターにのって部屋の前までいってドアのロックを開け部屋にはいる。レストランのスタッフであるあなたが、ボトルを部屋まで運んでくれる。勿論、運賃はお支払いしますよ」
「ちっと待ってください。酒類を扱うライセンスを持っているスタッフを呼んできます」
テーブルにきた若い女性は、Ferrari Caranoが3分の2ほど残るボトルをアイスペールに突っ込んで、その上から仰々しくナプキンで包み隠し、目の高さに捧げ持って前を歩く。
部屋に着いてドアを開けると、
「ここで私の任務は完了です」
と宣言しながら、アイスペールを手渡してくれる。感謝の言葉とともに数枚のドル札を手渡し、ワインボトルの運搬儀式は無事終了したのだった。

アラスカの都市発祥の地フェアバンクス

フェアバンクスは、人口9万8千人。これでアンカレッジについでアラスカでは2番目に人口の多い街である。
20世紀のはじめ、一攫千金を求めてゴールドラッシュに沸くアラスカを目指した人たちは、この地に根を下ろして生活するなんてことは誰も考えなかった。金を掘り当てたらアラスカに用はない。つかんだ大金を故郷に持ち帰り家族と平穏に暮らすか、ビジネスを始める原資にするか、それとも酒とバクチとオンナに使い果たすかだ。いずれにしても、アラスカで生活するのは非現実的だった。

1901年、バーネットという小船の船長が、金鉱探索に必要な道具のつるはしや、食糧、衣類などの補給品を積んだボートでチェナ川をさかのぼり丁度この地に着いたところ、ボートが転覆して戻るに戻れなくなってしまった。川岸にテントを張って、補給品を河原にならべ思案に暮れていた丁度そのとき、フェリックスペドロという仲間が近くで金鉱を掘り当てた。それを見ていたバーネットは、そうだ、この地に建物を建てて、山師たちに補給品を売る商店を開けば一儲けできるぞと思いつき、早速着手したところ、これが大当たりした。バーネットの店を中心に人々が住み着くようになった集落がいまのフェアバンクスの始まりだという。フェアバンクス市にはアラスカ大学の巨大なキャンパスがあり、大学街としても知られている。郊外のリゾートからバスで街を訪れてみたが、うら淋しい田舎街は、中西部にある大学街と似たり寄ったりだった。

第6~7日目

フェアバンクスの2泊は、バスの旅で疲れたからだを癒すのに最適だった。今日は、ここから南東に200キロはなれた山中のリゾート地、デナリに移る。途中、野焼きのような煙が立ち上る山火事の側を通過した。アラスカでは毎年、10万件をこえる落雷によって引火する原野の火事が発生する。火事は燃えるにまかせ、一切消火活動はおこなわないという。ツンドラのコケの下に広がった火は、冬になって雪をかぶったその下で根強く燃え続け、春になって雪が消えると再び燃えはじめるという。野火が人家に近づいてくると地元の人間が消火に励むが、それ以外の野火は放置するのが常識だそうだ。
「原野はたまには燃えるほうがいいのですよ。害虫が死滅するし、灰は肥料になりますからね」
バスのドライバーが解説してくれる。
小高い丘のパーキングエリアから見下ろすと、大阪市ぐらいの面積が白煙をあげてくすぶっている。
「勝手に消えるまで数週間かかるでしょう。観光バスも迂回しないいと行けなくなるかもしれません」
中年の女性バスドライバーが淡々と話すのが、都会に住んでいるものの耳には奇異に聞こえた。これほど平然としていなければ、厳しいアラスカの自然には立ち向かえない。

アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(5)

第3 日目:コールドフット到着

アラスカ北部を南北に分断するブルック山脈の峠を越えて、道路は下り坂にかかる。
峠の頂上を境に南北では風景ががらりと違う。
北の茫漠たる荒野と対象的に、南は緑で覆われた青い山並みが幾重にも続く。
急勾配の下り坂を、チャックはこれ以上臆病な運転はないというぐらい慎重なドライビングテクニックで、バスを転がし下ろしていく。

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〔写真1〕

最近、海外で観光バスやチャーターバスの事故が相次いでいる。公共の乗り物だけではない。
かつて勤務したアイオワ大学病院外科の同僚外科医も、祖国のアフリカ某国に帰郷しすべての行事を終えたあと、帰国の途につくため空港に向かっていたところ、スピードの出すぎた乗用車が転覆し、若い命を失った。
臓器移植専門の優れた外科医が、若者の無謀運転によってあえなく路肩の露と消えたこの人為ミスによる事故には、無情と悲哀と落胆を感じた。
つい最近もユタ州で日本留学生が運転するチャーターバスが横転し、数人の日本人旅行客が亡くなった。
それとは対照的に、チャックの運転するバスには安心して乗っていられる。安全運転を頑固に守るチャックに、乗客60名全員が連携した尊敬の念をもって対応するのが不思議におもえた。

ハナシがそれたが、下り坂が平坦な道に移行するあたりで路肩にチャックはバスを止める。
「ここを見てください。ここがエゾ松の森の北限と書いてあるでしょう。これより北には、針葉樹が1本も生えていないのは、皆さんこがれまでの道のりで見て来られた通りです」〔写真2〕
プルドウベイを出発して以来、初めてみる針葉樹は高さ3メートル、幹の太さは10センチほどだった。
「この10センチほどの幹を切ってみると、150層ぐらいの年輪が詰まっているのですよ。寒いところですから150年経っても直径10センチほどにしか成長しないのです」
「それだと随分堅い木なのでしょうね。手動の鋸で切れますかね」
「岩のように堅くて、普通ののこぎりではなかなか歯がたちません」

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〔写真2〕

こんな会話を交わしながらしばらく行くと再び登り坂にかかる。たおやかな小山の中腹で一行は、今日2度目のトイレ休憩のため停車した。〔写真3〕
裸土のパーキングエリアに降り立つと、目の前に「Arctic Circle、これより北は北極圏」と明記した立派な標識が立っている。なるほど、われわれは昨日からいまこの瞬間までずっと北極圏内にいたというワケだ。

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〔写真3〕

北極圏とは一体なにか?
その定義を調べてみると、冬至に太陽が顔をださず、夏至に太陽が沈まない地域と記載されている。この定義にあてはまるのが、北極点を中心にして北緯66度33分39秒地点までの距離を半径として描いた円の中に入る北極圏だ。
アラスカは勿論、グリーンランド、シベリア、スカンジナビアの一部を含む北極圏の外縁を形成する線は、北極線と呼ばれている。

この辺まで南下すると、えぞ松の背丈も大分高くなり、幹も太くなる。ツアーグループは、それぞれ北極圏の標識の左右に立って写真撮影。さすがこのアメリカでVサインをする人はいない。〔写真4〕
いい年をした男女が、両手の人差し指と中指でV型をつくり顔の横にかかげて頭を少し左右にかしがせ、痴呆じみた表情で写真に写るVサインは、宴会ののりが基本のニッポン文化独特のものである。

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〔写真4〕

背景の背丈の高いエゾ松の梢が、中空で風に揺れる林をみると、なにかしら気持ちが落ち着く。地平線まで樹木が1本もないツンドラ地帯は、白砂青松のニッポン育ちの感覚にはなじんでくれない。
緩やかなスロープを下るにつれ、エゾ松の林は更に密になりやがて森へと移行する。今夜の宿のあるコールドフットは、そんな森を切り開いたトラックの集積地だった。

1900年ごろ一攫千金を夢見て金脈の探索にたどりついた山師達がテントを張って野営したのがこの場所だ。沢には水が流れ、暖をとるための薪もふんだんにある。丸太小屋を建てる木材も豊富にある。金の採掘基地にはもってこいのこの土地は、コールドフットキャンプと呼ばれた。
記録によると、1902年のコールドフットキャンプには、宿屋が2軒、雑貨屋も2軒、紅灯のサロン7軒、ばくち場が1軒があったと記載されている。
金脈を掘り当てた山師が求めるのは、酒、おんな、それに博打。この3つを揃えたのがコールドフットキャンプだった。

地理の本を紐解くと、ブルック山脈南面の裾野にあり、フェアバンクスから248マイル北で、ダルトン高速道路の175マイル地点だという。北極海沿岸のプルドウベイからここまで、1日がかりで走ってきた未舗装の道路にはダルトン高速道路という立派な名前がついていたとは知らなかった。
 
2000年の米国国勢調査時には、この集落に6世帯13人が暮らしていて、一家計の収入は6万1千ドル。1人あたり4万2千ドルの収入があったというから、決して貧困集落ではない。

タンクローリーやコンテナのトレーラーが駐車している未舗装広場の中心にある高床式木造平屋だてが、スレイトクリークインだった。〔写真5〕
客室は3坪のスペースにベッドが二つ並んでいる。畳一条ほどのスペースにトイレとシャワーブースがあるだけ。
電話もテレビもない部屋だが、個人で予約したら1泊219ドルだという。

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〔写真5〕

アメリカ本土のどこの田舎町にでもあるナントカインというモーテルに泊まると、300チャンネルぐらい映るテレビ、国内ならどこにかけても無料の電話、インターネットへの無料アクセス、バスタブつきの広いバスルーム、400ピッチのシーツを使ったクイーンサイズのベッドが二つならんでいて、宿泊料は1泊100ドルもするかしないかだ。これが今の全米各地でおおまかな常識料金だ。

それと比べると、こんな辺地のテレビも電話もついていない安宿の素泊まりが1泊219ドルは高い。南北400キロの範囲には他に宿がないのだから当たり前といえばそれまでだが。

宿のマネージャーの態度も、プルドウベイで「リッツカールトンにようこそ」と迎えてくれた笑顔が印象的なマネージャーと違って、難民収容キャンプの鬼所長のような高圧的なところがある。
「シャワーの湯がでるのは夜10時まで。それを過ぎると明日の朝10時までは冷水シャワーのみ。メシは向かいのレストランで、各自払いで食べてもらう。なにか質問は?」
真夏の白夜とはいっても、夜明けまえには氷点近くまで気温が下がる北極圏から外れたばかりの宿だ。冷水のシャワーをあびたら肺炎になって2度とホノルルの土を踏めなくなるかも知れぬ。

こんな場合、必ず二言三言は皮肉まじりの質問で一矢報いるのがアメリカンの常だ。アメリカ魂はどこえやら、無言でおとなしく指示に従う姿を見ると、「文句があるなら、400キロ離れた隣のホテルへどうぞ」といわれるのがよほど恐ろしかったと見える。
実際、隣のホテルは、フェアバンクスに行くか、昨晩泊まったプルドウベイに戻るか、二者択一だがいずれも400キロ離れている。
宿のマネージャーが高圧的になるのも、むべなるかな。

指示にしたがい10時までにシャワーをすませてベッドにはいる。11時すぎても、カーテンの隙間から眺める景色は、白夜のせいで昼間とかわらない。オーロラの一つぐらい出てくれないものかと空を見上げると、ほんのり夕焼けした青空だった。

辺地の夜は気持ちが悪いほどの静寂だ。
隣室との境はベニヤ板1枚。隣人のため息、寝息が筒抜けに聞こえる。しばらくすると、若い女性の押し殺したようなくぐもり声に男性のささやく声が続く。若さには勝てぬ。こんなドヤのねぐらでも、愛の交換なしには一夜と過ごせぬとはなんと羨ましい。

翌朝目覚めると、雲ひとつない晴天だ。
バスは8時に出発するという。
ここからフェアバンクスまでの道のり400キロのうち、半分ぐらいは舗装されているという。
しばらくすると、森のどこかに隠れていたパイプラインがいつの間にか現れて、バスの行くダルトンハイウェイに沿って平行に走るようになった。
4時間ぐらい南下した地点で、バスはハイウェイを外れて森の中にはいっていく。野球場ぐらいの広場にポツンと掘っ立て小屋のような人家があり、ハンバーガーの看板がでている。

中年の女性二人が共同で経営するこの店は、トラック運転手のオアシス。ハンバーガー1種類だけのランチだが、大変美味だった。〔写真6〕
「こども達から目を離したらだめですよ。森には熊がすぐ側まできていますからね」女性の1人が、子連れのカップルに注意を促す。
「夕べも、寝ていたらひ熊が窓のすぐ下まで来ていました。用心してくださいよ」
幸い誰も熊に食べられなくてよかった。

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〔写真6〕

ユーコン河を渡る直前で、パイプラインの真下をくぐり、本日2度目のトイレ休憩。

パイプラインは直径1メートルの鉄管を厚さ10センチの断熱材で取り囲み、その外側をステンレスの外皮で覆ってある。直径50センチほどもある鉄の支柱2本の間に鋼材の梁を渡して、その上を前後左右にスライドする鉄製のすべり板が乗っている。すべり板の上に4本つきでた爪状の鋼材がパイプラインをしっかり把持してすべり板から離れないように固定している。
パイプラインは夏冬の温度差で伸縮する。適度にゆとりをもたせる設計だから、伸縮時には左右にもぶれる。この動きを許すのがすべり板だ。

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〔写真7〕

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〔写真8〕

支柱の上にはブラシのような棒が突き出ていて、パイプラインの両側ななめ上から放熱し、パイプラインを加温する仕組みになっている。支柱は永久凍土のなかに差し込まれているから、年月が経つと重力の圧により凍土が溶けて、地中に埋もれてしまう。これを避けるため、上部でパイプライン加熱のため放熱した液体アンモニアをパイプで支柱の中を地中に送り支持基盤の凍結を維持するという一石二鳥のメカニズムになっているのだ。

これらをわずか5年間で設計製造し、辺地アラスカに運び込んで1,300キロの敷設に貢献した昭和ニッポンの工業力は絶賛に値する。

予定どおり8時間の旅を終えたバスは、フェアバンクス郊外にあるプリンセスクルーズ専用の豪華リゾートホテルに滑り込んだ。各自それぞれチャックに別れを告げ、非日常的な時間を過ごした2日間の思い出を胸に部屋に入ると、文明と再会したのだった。