親友

AとB はともに40半ばの中年男だが竹馬の友だ。幼少のころ父に反抗して登校拒否児となったBは、クラスの誰ひとり相手にしてくれない落ちこぼれだった。淋しい孤独な日々を送るBを、Aは誰に命ぜられたわけでもないが、毎日放課後になると家に訪ねた。将棋の相手をしながら、学校であったあれこれを話してやり、Bを慰め励ました。そんな二人だったが、進学と同時に別々の途を歩みはじめ、連絡が途絶えたまま歳月が過ぎていった。医師をめざして医学部に進んだAは、長じて総合病院のオーナーになった。

そして30数年を隔てたある日突然、Bが老いて病んだ父を伴いAの病院を訪れた。幼い日にはあれほど忌み嫌った父を、今はこよなくいたわるBの姿をみて、Aは一体何がBをここまで変えたのかと訝るばかりだった。

「ボクはいま自閉症に悩むひとを助ける仕事をしてるねん。こんな仕事ができるようになったのは、A君、キミのお蔭や。毎日家へ来て、しょぼくれてたボクを励ましてくれたやろ。あのときキミが居てくれなかったら、ボクは今こうして生きてキミと会えなかったかもしれん。感謝してるで。ありがとう」

Bの父はまもなくAの病院で亡くなった。

「キミに渡すものがあるねん」といって、BはAにセピア色に変色した大判の写真を差し出した。そこには将棋を指している少年の日の二人が写っていた。

「親父の持ち物を整理していてこれを見つけたとき、ボクの心のなかで永年凍結してた氷が音をたてて砕けた。冷たい親父やと思うて憎んでたが、キミとボクの友情のしるしをこんなに大事に保存して残して呉れたんや。そやから、これはボクの一番大事な友達のキミに受け取って欲しいねん」

ここで言葉が途切れたAは「この話するたびに、なんや知らんけど泣けてしもて。すみません」と声を詰まらせる。聴いていてあふれる涙が止まらなかった。

(出典: デイリースポーツ)

「肩すかし」は禁じ手か?

「ええ勝負でしたな。久しぶりに熱狂しましたわ」先々週からホノルルに居続けしている大阪のオッチャンは、衛星中継の大相撲大阪場所千秋楽の横綱朝青龍と大関白鳳の優勝決定戦を見て感激する。朝白ともに12勝2敗で迎えた千秋楽。白鳳が勝って13勝したあとの結びの一番は朝青龍と千代大海だ。横綱が優勝の可能性を残すためには、この一番をどうしても勝たねばならぬ。横綱は猪突猛進してきた千代大海の左にとんで送り出した。「ワテも、この手が一番無難やと思うてましたんや。やっぱり横綱は賢いでんな」想い当たったオッチャンは大満悦だ。

朝白ともに13勝2敗同士。優勝を賭けての決定戦を迎えて、場内は興奮の坩堝と化した。準備のできた朝白は再び土俵にあがる。制限時間いっぱいとなった土俵を、場内一同固唾を呑んで見守る中、二人はぱっと立ち上がった。すかさず白鳳は左にとぶ。目の前から相手が消えた朝青龍は、たまらず左手を土俵についてしまった。この間約0.5秒。座布団の舞う土俵上で、テレビ画面いっぱいに苦笑いする朝青龍の表情が印象的だった。

実況のアナウンサーに「優勝を決める大一番ですからぶつかり合う相撲を期待していました」と水を向けられた解説者は「もう少し違った相撲をとって欲しかったですね」と同調する。それにつられたかのように、ため息ともブーイングともつかぬ声が場内に充満する。

「黙って聴いてると、まるで白鳳がインチキをして勝ったようなコメントを言うてますな。禁じ手でもない立派な決まり手に相撲のプロの解説者がケチをつけて、どないしますねん」オッチャンが憤る。「プロレスなら決まり技が見世物ですが、あれは八百長でっせ。真剣勝負の大相撲で相手の意表を衝いて勝った白鳳は、いうてみれば、頭脳の勝利でんがな。白鳳関、立派な優勝です。おめでとう」

(出典: デイリースポーツ)

ファーストネーム

「ケン、ニッポンでは家族や友人同士でもファーストネームで呼ばないそうだね。そこで尋ねるのだが、わたしがZ教授を“アキラ”とファーストネームで呼んだら、彼は不快に思うだろうか?」数年前国際学会のロビーで会った米国人外科医Sの質問だ。Zは日本の某大学医学部教授。ZとSは数10年来の友人同士だ。だのに互いを「プロフェッサーZ」、「ドクターS」と堅苦しく呼び合っている。Sはこれを「アキラ」「ジョン」に変えたいのだが、Zの反応を計りかねて助言を求めてきたというワケだ。

「不快に思う理由はないよ」「アキラと呼んだら、Zはわたしをジョンと呼んでくれるだろうか?」「さあ、試してみたら」で会話は途切れた。

後日Zにこのいきさつを話すと「アキラ」と呼ばれるのに抵抗はないが、Sを「ジョン」と素直には呼べないという。「われわれ戦中世代の人間は、米国人の名前を呼び捨てるのには、えも知れぬ抵抗があるのだ。たぶん進駐軍に対するコンプレックスが残っているからだろう」

進駐軍といえば、アイオワ大学の教壇に立つたび、医学生の顔が50年前の進駐してきた兵士とダブって、この連中をわたしが鞭打っていいのかと秘かなためらいを感じた。終戦にひき続いて小中学時代を送った私にも、進駐軍コンプレックスがどこかに潜んでいるようだ。

アメリカンは、家族はもちろん、上下司や師弟間でもファーストネームで呼び合う。30数年前、小児外科研修医としてF教授に師事した。研修期間中には恩師FをドクターFと呼んだが、研修終了と同時に、Fの要望によって、ファーストネームで呼ぶようになった。後年コウベを訪れたFを「ハーブ」と呼ぶのを耳にした先輩外科医から「師匠をファーストネームで呼ぶとは何事や。不遜な態度を改めよ」と意見された。因みに先輩はZと同じ年代だった。

(出典: デイリースポーツ)

続「観光ハワイが泣くで」

先週からワイキキのホテルに滞在中の大阪のオッチャンを訪ねた。「機嫌直してハワイをエンジョイしてはりますか?」「空港で乗せられた“家畜運搬車”の気分の悪さがまだ残っていてあきまへん」ホノルル空港の到着ゲートから入管まで運行している3両連結のバスは、冷房もなく、キイキイと金属性の悲鳴をあげ、カーブのたびに大きく傾く。あまりの不快さに、その場でUターン帰国しかける観光客も何人かいるという。この時代がかったオンボロバスは、先週オッチャンに“家畜運搬車”と呼ばれてボロクソにこき下ろされた。

「日暮れのあとのホノルルは、街全体が暗うて、なんとなく貧乏臭うおますな」オッチャンは鋭く衝いてくる。アメリカ本土から移った当初、街灯の灯りが小さくて路面が暗く感じられた。道路標識も小さくて、なぜか通行人から見えにくいところに位置している。

「問題は街灯の明るさだけやおまへんで。ハワイのドライバーは大阪人よりも運転マナーが悪い。夕べもワシが横断歩道を渡っとるのに、クルマが目の前を平気で右折しまんねん。危うく轢かれかけましたわ。これでは東南アジアの街と同じでんがな」「オッチャン、観光地評論家みたいなこといいますな」「この街には歩道の脇の花壇やら、ちょっと休むのにベンチのある広場やらがおまへん。カラカウア大通りの一軒一軒の店は豪華でっせ。けど、通りの景観はもひとつでんな。観光客にとっては街全体が豪華で綺麗なリゾートでないとあきまへんのや。街角から貧乏臭いもんを全部撤去してみなはれ。また、ニッポンから大勢ハワイへ来るようになりまっせ」

ハワイ観光客のうち日本人は2割ほどだが、カネは他国人の何倍も使う。それが毎年減る一方だから、ハワイ観光局はあわてている。「観光局の方、この際大阪のオッチャンをコンサルタントに雇うたらどないです?」

(出典: デイリースポーツ)