続 バリ島の珍事

学会恒例の晩餐会は、南十字星の星空の下で開催したいが、バリ島には夜毎強烈なスコールが訪れる。悩める企画委員会は島で一番の“お祈り婆さん”を学会の予算で雇い、すべてを託すという妙案を打ち出した。祈祷のお陰で晩餐会の間中は満天の星空だったが、おひらきと同時に大雨になった。最先端医学の学会行事が“お祈り婆さん”に支えられるというミスマッチは、バリ島ならではのユニークさだ。

そのころ、中東某国では指導者が交代し、西側寄りの人々には粛清の波が押し寄せていた。危機は医療界にも迫り、米国留学経験のある小児外科医Zは命が危くなってきた。Zの家族はすでに国外脱出していたが、一人残ったZは、バリ島の学会長から届いた特別招聘状を政府に提出し、これを口実に国外脱出を試みた。ところが空港の政府係官はZの出国を許さない。つぎなる会長の指示に従い、Zは家屋敷と家財一切の鑑定書を弁護士事務所に持参し、「Zが帰国しなかった場合には、資産のすべてを出国係官のXに譲渡する」という公正証書を作らせた。

家や宝石の写真つき鑑定書に譲渡の公正証書を添えて空港に持参し、買収するならコイツと目をつけていた係官Xに手渡す。心臓が破裂しそうな数十秒が過ぎる。パクリと餌に喰いついた係官Xは、ついにZに出国許可を出した。

こうなると長居は無用。Zは一番早い出発便がルフトハンザと知るとカウンターに駆けつけ、チケットを買い、ゲートを通過し、機内に駆け込んだ。座席に座ってはじめてフランクフルト行きの便と知った。機が滑走路を離れると体中の力が抜けたという。その後国際線を乗り継ぎ、バリ島に着いたのは晩餐会終了の直前だった。

この脱出大作戦の一部始終は、学会の会長と理事長の私だけしか知らぬ秘密だった。国際学会のウラでは、ジェームズボンドが活躍するような世界が展開することもある。

(出典: デイリースポーツ)

バリ島の珍事

アメリカ本土各地は、熱波の来襲で気温が40度にも達し、多数の熱中症犠牲者をだしている。ここホノルルは、ひんやりした貿易風のお蔭で、ゴルフのプレー中に汗が滲むことはないのだが、今年の夏はハーフが済むとシャツは汗でぐっしょり。どこかおかしい。

シャツを濡らす汗といえば、思い出すのがバリ島での出来事。ジャワ島の最東端にあるこの小島は、朝洗ったシャツを天日に干すと夕方になってもまだ雫が滴るほど、湿度が高い。

そのバリで25年前にアジアの小児外科医が集まる学会が開かれた。恒例の晩餐会はプールサイドにセットした会場で、輝く南十字星のもとに400名の参加者を集めて催された。

当時、国際学会には小児外科の師と仰ぐ大阪のUセンセと同行するのが常だった。今回も一緒にバリ島にやってきたが、本学会創立メンバーで超VIPのセンセは、各国代表との会見に多忙を極めていた。晩餐会でのスピーチの依頼をうけ、いつものことながら、「キムラ君、スピーチでオレの言いたいことはアレとコレや。英語に直しといてや」と言い置いて消えてしまった。

万年筆でホテルの便箋に書いたスピーチの原稿を、四つ折にしてセンセに手渡すと、目も通さずに「ありがと」といって、バティックの胸ポケットに入れるや、次のスケジュールへ。

さて、晩餐会の演台に立ったセンセは、胸ポケットから取り出した原稿をためつすがめつするばかりで、無言の時が過ぎる。全員が何事ぞと固唾をのむ中、やがて始まった原稿なしのスピーチは、たどたどしかったが無事終了した。満場割れんばかりの拍手は、原稿を棒読みした他のスピーカーたちをコケにした。ステージを降りるセンセに、「どうなさったのです?」と尋ねると、「キミの書いてくれた原稿は、汗で滲んでしもて、字が全然読めなんだんや」だと。それがかえってよかった。

(出典: デイリースポーツ)

白鵬に見た、ホンモノの男

大相撲名古屋場所の千秋楽結びの一番をテレビで見て背筋に戦慄を覚えた。ここ数年、大相撲各場所はNHK衛星中継で欠かさず見ているが、これほど興奮した取り組みの記憶は他にない。大関白鵬は不覚の二敗をしたものの、この一番に勝てば、わずかながらも、横綱昇進の望みが残っている。一方、対戦相手の横綱朝青龍は、ケガで休場した先場所からのカムバックを、全勝優勝で飾りたい。両者ともに、ここが正念場の大一番となった。

通路から土俵に向かう白鵬の姿には、大勝負をまえにした大力士の貫禄がある。控えの席についたあとの、目をつむり瞑想する表情が良い。燃え上がる闘志を内に抑え、湧いてくる不安や迷いと闘い続けているに違いないが、それを微塵ほども表に出さないのが、また良い。これが20歳の若者とは思えない落ち着きようだ。

いよいよ土俵に上がると、立会いで横綱と交わす視線が鋭くていい。強い野望に満ちていて素晴らしい。ほとばしるほど強烈な達成欲は、今のニッポンの男たちが失ったものだ。他の大関たちの、場所ごとに8勝して大関の座が保てさえすれば安泰だという姑息さは、微塵も見られぬ。最高峰を目指して一途に突き進む。それ以外には目もくれぬというホンモノの男の姿を見せてくれた。

朝青龍も白鳳も、ともに、10代半ばでモンゴルからニッポンに移住し相撲界に入った。ニッポンという極めて排他的社会をもつ異国のなかの、兄弟子と書いて拳骨と読むという理不尽がまかり通る角界で、飲んだ水はさぞ苦かっただろう。悔しさに枕を噛んで涙した夜もあっただろう。「負けてたまるか」と誓った強い気持ちが、彼らをここまで導いたに違いない。50歳過ぎてから、外科医人生をアメリカに賭けたわたしには、その気持ちが痛いほど判る。

今場所、白鵬の横綱昇進は成らなかったが綱取りは時間の問題だ。白鵬、頑張れ。

(出典: デイリースポーツ)

過剰生活

テレビの画面にニッポンの家庭が映る。子ども部屋の居住スペースを、膨大な数のモノが占領している。勉強机の上にはパソコンと携帯電話。テレビとステレオを載せた本棚にはCDとマンガ本がぎっしり。その横にスタンドピアノ。ピアノの足元にはバイオリンとギターのケース、スケートボード、アイススケート靴、サッカーボール、野球のバットとグローブ。この部屋の住人は中学高学年か高校生だろう。

学校から帰ると友達とメールで交信し、塾に行き、週に何度かピアノとバイオリンのレッスン。その合間にギターを爪弾き、CDを聴き、スケートボードで遊び、野球やサッカーやアイススケートもするのだろう。持ちモノの総てを使いこなすスケジュールは分刻みだ。これほどめまぐるしいと、一つひとつを楽しむ感性が不足はしないか?

1952年中学3年生だったわたしの財産は、布製の肩掛けかばん、教科書、ノート、辞書、参考書少々、筆箱、月刊少年倶楽部、ビー球数個、野球のグローブで総てだった。部屋の壁に掛かる古い世界地図のニッポンは赤、カナダはピンク、アメリカは緑、中国は黄に塗り分けられていた。夜毎布団の中から地図を見上げては「あの緑色したアメリカに住んだら暮らしをするだろう?」と想像した。それが夢に繋がり、アメリカに移り住む動機となった。

無尽蔵に湧いて来る想像は限度を知らない。想いが未知のカベにぶつかると知的好奇心が刺激される。求める解答を参考書や書籍の中に見つけては夢中で吸収した。塾も受験もない時代だった。持ちモノの数や情報量ではいまのこどもたちと比ぶべくもないが、当時の私たちには、それぞれの感性、想像力それに知的好奇心を賦活し楽しむ十分な時間があった。

過密な予定と過剰なモノに埋もれて暮らす『過剰生活』では、人の感性は鈍化する。予定やモノを整理すれば、多少は感覚も鋭くなのでは?

(出典: デイリースポーツ)

キダさん、禁煙してますか?

ニッポンのホテルで一夜明かすと、翌朝ノドの異常に気づく。いがらっぽい咳とともに茶色の痰がでる。「禁煙の部屋を頼んだ筈だけど」とフロントに抗議してみる。セントラル冷暖房だから、喫煙、禁煙両フロアの空気は混じり合って循環するが、構造上分別循環はできないと謝られた。「それなら全館禁煙にしたらいかが?」というと、宿泊客の3人に2人は煙草を好むから、それは営業上出来ない相談だという。

煙草は身体に悪いのだ。アメリカ各州は、不特定多数の人が出入りする建物は、公私に関わらず、全館禁煙と法律で定めている。勿論、ホテルは全館禁煙だ。スモーカーは屋外に出て吸うしかないが、屋外喫煙も禁止する運動が進行中だ。ホテルの中庭で、ひっそりと煙草を吸う人たちの姿を見ると、何十年も前に禁煙したときのエピソードが思い出される。

まだ神戸にいた頃、大阪朝日放送の「フレッシュ9時半キダタロー」というトーク番組のゲストに招かれた。ホストのキダさんのリードで会話は軽やかに弾む。コマーシャルのあと、キダさんがいきなり「センセは、煙草を吸う人間をどう思います?」と突っ込んできた。打ち合わせにもない質問に、「喫煙は人類が開発した最も愚劣な習慣だと思います」と、とっさに答えたのを想い出す。

ふと気づくと、ガラス窓の向こうのモニタールームで、女性ディレクターがスパスパと旨そうに煙草をふかしている。キダさんは、なぜか彼女を憤怒の形相で睨みつけているのだ。そのワケは、次のコマーシャルブレイクで判明した。

当日、キダさんは禁煙2ヶ月、わたしは禁煙2週間目。勿論、オンエアはしなかったが、二人とも、禁煙の決意が緩んでくる時期にあった。これ見よがしに紫煙をくゆらせる女性ディレクターを見て、キダさんもわたしも、禁断症状が大爆発したというワケだ。

キダさん、いまも禁煙してますか?

(出典: デイリースポーツ)