スクールバスの奨め

1週間まえ、廣島で小学校1年生の女の子が下校時に殺害され、同級生と別れたわずか3時間後に、空き地の放置された段ボール箱の中で発見された。ペルー人の男が逮捕されたが、亡くなった女の子は二度と戻らない。こんな悲劇が日常的に起こっているのに、政府はなぜ予防策を講じない?市民はなぜ立ち上がらない?

アメリカもニッポンに劣らぬ犯罪社会である。ニッポンとの違いは、市民が闘う意思を表明し実際に行動する点だ。全米どこの州でも、こどもたちを悪人どもから護るために、登下校にはスクールバスを走らせている。何十万台ものバスの購入やオペレーションのコストは莫大な額に登るが、そのためなら市民は喜んで税金を納める。

アメリカでは、真面目に働いて税金を納めている者を「善良な市民」と呼ぶ。「善良な市民」の社会を護ることが正義であり、それが価値観の原点である。この単純で明解な考えに立つと、人質を銃で脅して立てこもる犯人を警官が射殺するのは正義の遂行である。変質者の犯歴を公開し地域社会から放逐するのも正義だ。街角に監視カメラを置いて犯罪を見張るのは正義の実行である。

正義は犯罪者の刑罰にも及ぶ。ニッポンの刑法は犯人の厚生を重視し、被害者に冷たい。米国の刑法は懲罰のニュアンスが強い。多くの州では13歳に満たぬ未成年者を強姦したものは、たとえ初犯でも終身刑である。それに殺人を重ねると極刑である。量刑が極端に軽いニッポンは、外来の極悪人どもにとっては、甘い犯罪の温床と化している。

この稿を書いている間に、またもや栃木で7歳の女児が下校途中に襲われ殺害された。かつて世界に誇ったニッポン社会の安全神話は消滅した。この際、こどもの命を護るための正義とは何かを真剣に考えてみたら如何?「善良な市民」が行動を起こさねばならぬときもある。

(出典: デイリースポーツ)

一級建築士と外科医

設計事務所を経営する一級建築士が、鉄筋を何本か間引いた設計をしたせいで、軽い地震でもホテルやマンションが倒壊するというニュースが全国に波紋を広げている。ビルを建てた建設会社は、設計どおり建てたのだから責任はないといっているが、建設中にコンクリートの中に埋める鉄筋の本数が少ないと、経験で判らなかっただろうか。

渦中の一級建築士は、テレビのインタビューに、鉄筋の本数を基準よりも節約する「風潮」が業界内にあったという。「風潮」に逆らうならビジネスを失うぞと脅迫され、やむなく手を抜いたと、平然と述べる姿に嘔気を覚えた。

これを手術に置き換えてみよう。わたしが或る病院に、外科医として勤務していると仮定する。病院のオーナーから経営改善のため、手術中に使う縫合糸の本数を間引いて使えという「圧力」を受けたとしよう。縫合数を間引いた手抜き手術をすると、縫った傷は開いて、患者は生命を落とす。オーナーは、手抜き手術をしなければ、クビにするぞと圧力をかける。さて、どうするか。

わたしは躊躇せず、直ちにその病院を辞める。そしてオーナーから「圧力」があった事実を公表する。そう決断する勇気を持たぬものは、メスを持ってはならない。そう教わり教えてきた。

判断と実施が人命に関与する職業にあるものは、余人の持たぬ資格に対し免許を与えられる。免許は、資格の範疇において判断と実施を行う際、正義(fairness)を貫くことを前提にしている。医師は医療行為に際し「行為が患者の利益に供するか否か」を基本に判断し実施する。

一級建築士も外科医も、判断と実施が人命に関わる自己完結型の職業だ。「圧力」ごときに押され、ひとの生命を粗末に扱うことは許されない。「自己のビジネスを守るため鉄筋を抜いた設計をした」と他人事のように語る一級建築士に、現代の底知れぬ不気味さを覚えた。

(出典: デイリースポーツ)

沖縄のサカナも旨いサ

「沖縄暮らしに無聊をかこっているらしいから、慰めに訪れてやろう」と、9月から2月の間、尋ね来てくれた友人たちは、遠くはホノルル、近くは福岡から総勢8組にのぼる。ありがとう。持つべきは友。まさに、遠方より友来る、また楽しからずやだ。

先週のウイークエンドには、東京からのAさん夫妻と大阪からのHさん兄妹の初対面の二組に沖縄で合流してもらい、ともにゴルフ、グルメをエンジョイした。

ホノルルを発つ前には、沖縄の食べ物はゴーヤチャンプル、そうきそば、豚の耳や足、青や黄色の魚を想像していた。それで食が進まなければ、丁度、ダイエットになってよかろうと思っていた。あにはからんや、沖縄に来てみると、旨いものはごまんとあった。

東京と大阪混成軍を北谷のすし屋「次郎長」に案内した。初めての人は、カウンターに座り、目の前に立つ親方の顔をひと目みて仰天する。今回も「センセ、もしかして、この人俳優の黒沢年男さんではありませんの?」「そうですよ。これはお忍びだから口外無用」「ご冗談を!でも、あんまりよく似ていらっしゃるので、ご本人かとおもいました」という会話になった。毛糸で編んだ帽子をかぶり、クロ縁の眼鏡をかけた親方はまさしく黒澤年男さんだ。沖縄に来たら一度訪れてみるべし。仰天なさること請け合います。

から揚げにしたグルクンは骨ごとたべると旨い。煮付けにはミーバイかビタロー、バター焼きはミミジャー、刺身は戻り鰹やシャコガイだが、緑色をしたブダイをさっと湯通ししたのもいける。親方が甕で長年成熟させた古代泡盛のロックを重ねながら、ゴルフ談義にハナシは弾む。

銀座久兵衛の常連のAさんや、大阪ミナミの数あるすし屋で鍛えられたHさんの舌をしても、「次郎長」の味はかなり上位のランクだというから、地元沖縄住人になりきった世話人としては、鼻高々のひと宵であった。

(出典: デイリースポーツ)

支払いは電話1本

沖縄に住んで2ヶ月過ぎた。この間、ホノルルの我が家は空き家のままだ。電気代や電話代など月々の掛かりは前払いを済ませてきたが、クレジットカードの支払いは、利用金額の予測がつかないから、前払いというわけに行かぬ。毎月郵送されてくるカードの請求書は、ホノルルの局留めになっているから、手元にはない。支払いもせず、3ヶ月も放置すると、年利20パーセントの利息を払わねばならぬ。思案に暮れ、カードをためつ眇めつ眺めていたら、海外からのフリーダイヤル番号が目に入った。早速ダイヤルしてみる。

アメリカは真夜中であるにもかかわらず、女性の声で久しぶりの英語が受話器から聴こえてきた。

名前、カード番号のほかに、暗号に使われている“母親の結婚まえの姓”を告げると、本人と確認してくれた。「どんな御用でしょう?」という問いに、事情を説明し、請求金額と郵送のあて先を教えてくれたら小切手を航空便で送るというと、そんな回りくどいことはしなくていいという。

「お手元の小切手に書いてある銀行の9桁の認識番号と、お客様の口座番号をお知らせくだされば、請求金額を直ちにこの口座から引き落とさせていただきます。よろしいですか?」オーケイと返事すると、2秒とおかず「送金は完了しました。送金の確認番号はxxです」といって、9桁の番号をくれた。嬉しくなって礼をいうと、「来月のお支払いには、私どもに電話いただかなくても、プッシュフォンに数字を打ち込むだけで送金が可能です」といって仕方を説明してくれた。

日本の金融機関では、こうは簡単にいかない。店に出向いて順番待ちの番号札を手にし、しばし無為の時を過ごさねば送金ひとつできない。この違いは、IT機能の不備もさることながら、ユーザーを大事におもうサービス業の根本思想にある。ユーザーのニーズにあわせて、コンピューターをプログラムし直したら?

(出典: デイリースポーツ)

「なる」文化の国

新内閣の認証式に引き続く恒例の記念写真撮影の模様をテレビでみた。最前列の小泉首相の左隣に立つ女性新大臣は、鮮やかなブルーのドレスを身にまとい、まるで宝塚歌劇のステージに立つ大スターのように華やかだった。

翌日のテレビインタビューでは、「お肌がつやつやして、お若いですね」というインタビュアーのコメントに、「そんなことをおっしゃらないでください」と否定なさりながらも、くねくね動くボディランゲージには、歓喜、はにかみ、色気が混じりあい、童女と見間違うばかりの無邪気さが溢れていた。

アメリカでは、女性の身体状態について「肌がつやつや」などと批評することは、それが世辞ではあっても、立派なセクハラである。国際派の新大臣は当然それをご存知の筈だ。だから「ふざけないで!」の一言のもとに却下されるものと期待したのだが、嬉々とした反応を示されたのは意外だった。

話題がブルーのドレスに及ぶと、「ここまで登りつめた特別な日を記念して着用しました」という意味のコメントをのべられた。「一生一度の晴れ舞台なのだから、少しぐらい目立つドレスを着たっていいでしょう」と理解の催促が、言葉のウラに読み取れた。

日本は「なる」文化の支配する社会である。政財官界学界で上昇志向の強い人は、リーダーに「なる」ことにゴールを設定する。これは「なった」瞬間に、それまでの努力や忍耐のすべてが、完結する文化である。就任後に何をするかは厳しく問われない。「なる」ことにこそ価値のある地位であるから、任期中、国のために何をするかを明示しない新大臣でも、晴れ着に身を包んで感涙に咽んでいれば温かく優しく受け入れてもらえる。

新大臣が永年過ごされた米国の大学は、教授就任の条件に「大学人として何をするか」を厳しく問う。着衣の色やデザインとは、まったく異次元の問題である。

(出典: デイリースポーツ)