患者は「普通の人」

一月前、東京の病院で医師が女性患者を裸にして写真をとり、ひそかにコレクションしていた事件があった。学術資料として写真をとらせてくれと頼まれた女性は、ナースの立会いもなく全裸にされ、不審におもったが、相手が医師だから従ったという。この事件によって、日米医療現場の違いを考えさせられた。

10年以上前、アメリカで「患者の権利」が論じられた際、「病人は患者という特殊な人種なのか」という問題が論議され、患者は病気にかかった「普通の人」である、という結論に達した。以来、全米の病院を認定する病院監査機構は、通院入院を問わず、患者を患者としてではなく、「普通の人」として対応するよう全病院に指示をだした。

あなたやわたしのような「普通の人」は、24時間家族と一緒に過ごし、好きなときに好みの音楽を聴き、テレビを見、友だちと電話で話し、食事を摂る。これが「普通の人」の生活だ。病院監査機構の指示は、各自の生活パターンを入院後も継続させろというものだった。

指示によって、すぐ隣のベッドで赤の他人が寝起きするという大部屋スタイルの病室を撤廃し、一室の定員は二名までに基準を変えた。いま、殆どの「普通の人」たちは自宅の個室で暮らしているから、病室も個室が適当だという意見が強い。だから、アメリカでは全館個室の病院が増えている。

「普通の人」は、自分の身体を他人に触れて欲しくない。ましてや、裸の写真を撮られることなどもってのほかだ。でも、なかには、教育や医学の進歩に協力すると言う奇特な「普通の人」もある。協力者は医師との間に「身体を医学生に診せる」「写真を撮らせる」というインフォームドコンセント(説明承諾書)を交わす。口約束は一切無効というのがルールだ。東京の病院にこんなルールが備えてあれば、事件は防げたろう。

(出典: デイリースポーツ)

「春歌世代」

「春歌を唄ったことはあるかい」若い研修医たちに尋ねてみると、全員が「ノー」という。「春歌ってなんですか」と問い返すものもいる。

1960年代の学生コンパでは、「一つ出たホイのよさホイのホイ」の出だしではじまる代表的春歌が開会の挨拶だった。そのあとも手拍子にあわせた卑猥な唄が延々と続く。唄の合間に呷る安酒に、一人またひとりと酔いつぶれていく。最後の一人がダウンすると、それでお開きになった。

あの頃、若者は、何故に春歌を唄ったのだろうと想い返してみる。当時は、男と女が一度でも肉体関係を結ぶと、結婚にまで発展するという解釈が大方の了解だった。今と違って、親は子に対して絶対的な支配力を維持していた。息子が大学に入ると、「下宿屋の娘などシロウトの女性には、絶対に手を出してはならぬ。もししたら、二度と家の敷居をまたぐことはないと思え」と引導を渡して送り出した。親の戒めは恐ろしいが、身体の底から突き上げてくる性の衝動を抑え込むのは難しい。

親の戒めと内なる衝動。この間で葛藤する若者たちは苦悩した。衝動を封じ込めると、体内に渦巻くマグマの圧が上がる。圧が閾値に達すると、爆発の危険が迫る。とはいっても、都合よく欲望のはけ口になってくれる相手はいない。空しくも、ガス抜き代わりに春歌を唄う。「春歌世代」のコンパにはこんな時代背景があったのだ。

欲望に打ち勝つための自己制御は、強い克己心を育てる。耐え忍ぶ経験は、挫折からの復元力を養い、自信と気力を生みだす。いずれも、今の若者に欠けているものばかりだが、それにはワケがある。

いまは合コン全盛の時代。「今夜いいかい」と声かければ「いいわよ」で合意成立。その日のうちの「お持ち帰り」には、自己制御も、忍耐も、克己心も要らない。だから、若者たちに春歌は要らないのだ。

(出典: デイリースポーツ)

裏金を表金に

20数年前、公立病院に勤めていたとき、小児外科医でもある某国厚生大臣の来訪をうけた。東京で公務を済ませたあと、一小児外科医の私人にもどり、関西まで足を伸ばして、わたしを訪ねてくれた。私人とはいえ大臣である。関係某省から連絡が降りてきて、病院は公式の客として迎えざるを得なくなった。

当時、外科部長のわたしには、海外から毎年10人を超える訪問客があった。VIPの客は病院見学のあと、コウベステーキでもてなすのを常とした。これには相当の費用がかかったが、勿論、病院にそんな予算はない。全額わたしのポケットマネーで賄っていた。

国から引き継いだ時点で、病院の賓客となった某国厚生大臣は、一外科部長であるわたしが、私費で私的に接待する相手でなくなった。だが病院では、不意の客をレストランで接待する経費が予算に組み込まれていない。予算にない経費を使うことは、公務にあるまじき行為である。はたと困った病院幹部が講じた窮余の一策は、院内の給食部に命じて、職員給食に2、3品加えた夕飯を整え、これを大臣に召し上がってもらうことだった。

社交術にたけた大臣も、見慣れぬ料理を目の前にして、一言の世辞もなし。主客が手をつけぬまま、公的ディナーの儀式はお開きとなった。すぐさま街一番のレストランに案内し、でっかいコウベステーキを馳走して、大臣に機嫌を直してもらった。この行為によって、日本国の威信と面目の回復に貢献したと自負しているが、ポケットから出た費用は、いまだに補填を受けていない。

役所で裏金が作られるのは、これに類した事情に備えてではないのか。だとすると、いっそのこと、裏金を表金に換えてしまったらどうだろう。アメリカの大学病院では、各幹部は数千ドルの表金を持たされていて、大学の大事な客に粗相のない接待の出来る仕組みが作ってある。

(出典: デイリースポーツ)

ニッポンの銀行

まだ肌寒い四月のはじめ、所用で日本を訪れ10日余りを過ごした。円高でもあることだし、丁度この機会に、銀行口座に残っている少しばかりのカネを、ホノルルの口座に移しておくか、という軽い気持ちでSM銀行を訪れた。通帳と印鑑を見せて、送金先を所定の書類に書き込み待つこと10分。再び現れた窓口の中年女性、パスポートか運転免許証か、身分を証明するものを見せろという。はてなと思いながら、指示通り旅券も免許証も提出すると、今度は、キャッシュカードの暗証番号を言ってみろと命令する。あげく、通帳にある入金の謂れを説明しろと命ぜられるに及んで、ここが銀行か検察庁か判別できなくなった。別の約束の時間がなければ、理由を問い質すところだった。じっと堪えているのを知ってか知らずか、この女性、パスポート、免許証、通帳、すべて一時預かった上で、コピーをとるがいいかと尋ねる。本人確証をとるのに 40分ほどかかるから、どこかで時間をつぶしてこいという。きっかり40分後に同じ窓口に戻ると、もう15分かかるという。ここに至って、ついにブチ切れた。

「送金は取り止めだ。渡した大事なものを全部返してもらおう」というと、
「あ、いま、終わりました」

たった今、あと15分かかるといったではないか。嘘つきめ。

アメリカの銀行は、大分前から完全なペーパーレスである。書類の記入は一切いらない。あまつさえ、口座から口座への送金は、自宅にいて電話一本で、世界中どこにでも自在に出来る仕組みだ。ニッポンとアメリカでは、ITのレベルが違うからだろう。

「お宅の銀行はコンピュータというものを使わないのですか。お使いになっているなら、私のデータは入って居る筈だけど。旅券や免許証、それに暗証番号までハードコピーなさったのは、なんのためか説明してもらいましょうか」

「・・・ ・・・ ・・・」

不都合なときには、無言がベストのようですな。

(出典: デイリースポーツ)

今日からボス

「本日付で、アイオワ大学病院小児外科ディレクターに任ず」という辞令をもらったのは、48歳で渡米して丁度6年目、いまから13年前のことだった。小児外科という科は専門医、医師専属の秘書およびナース、研修医、テクニシャン、アシスタントなど、全部併せても10名足らずのグループである。小所帯とはいえ、アメリカンの部下を束ねて、小児外科セクションを仕切るボスに就任したのは、無知ゆえの無謀とあとになって知った。

アメリカの大学では、各学部および各セクションは単独会計、独立採算で運営する。科のディレクターは収支バランスを維持し、スタッフ全員にサラリーがいき当たるよう、黒字経営するのが仕事なのだ。平たく言うと、わたしは、経営がそれほど思わしくない小児外科という小企業の社長を押し付けられたというわけだ。

渡米するまで永年勤めたニッポンの公立病院には、各科を独立採算で経営するという発想どころか、科の収支バランスを分別記録した帳簿さえ存在しなかった。「それは無理です。手術なら何でもやりますが、カネ勘定だけは出来ません。辞退します」と一度は言ってみた。だが、引き換えに提示された年俸の大幅昇給に魅せられて、結局引き受けてしまった。

日本の団体はその規模の大小に関わらず、何かを企画実行する場合、トップは広く会議を興し、部下に発言の場をあたえ、コンセンサスという実が熟すのを気長に待つ。機を見て「皆さんの総意が得られたので、決めることにしました」と締めるのがニッポンのトップなら、一方、アメリカのトップは、「今日からはオレがボス。決断はオレがするかわり、全責任はオレが持つ」と胸を張らねば、誰もついてこない。この一言が、ニッポンで育った人間には、なかなか口にできないのだ。「根回し」と「トップダウン」。二つの文化の違いは、とてつもなく大きい。

(出典: デイリースポーツ)